北京オリンピックのボイコット日本人が既に居た
砲丸作成の世界一職人
「たった一人のボイコット」と評判になったのはオリンピックの陸上競技の砲丸投げの砲丸を作る辻谷工業社長の辻谷政久氏である。通常オリンピックの砲丸投げでは競技場が用意した砲丸の中から選手が競技直前に選んで投擲する。1996年のアトランタ、2000年のシドニー、2004年のアテネの男子砲丸投げで金・銀・銅メダリストらは全員、辻谷さんの作成した砲丸を使用していた。
何処が他と違うのだろうか。それは自動旋盤(NC加工機)で削りだした砲丸では無く手作業で旋盤を操作して仕上げることで砲丸の重心がピタリと真ん中に来る。このため砲丸が左右にぶれる事無く、真っ直ぐに押し出すことができるので通常の飛距離が1〜2メートル伸びると言われている。
初期のころは筋を残して、これまた手に馴染みやすかったのだが、砲丸への筋を入れるのは規則で禁止された。にも関わらず並べられた砲丸の中からバランスの良い職人辻谷氏の砲丸を各国選手が選ぶ。
その辻谷氏が中国での国際サッカーでの日本選手へのブーイング、反日デモを見て2007年の11月に北京オリンピックへの砲丸の提供を断った。昨今のチベット問題以前に辻谷氏は中国のオリンピック開催にNoだったのだ。最近ではマスコミの取材に「この国にオリンピックをやる資格はありませんよ」とまで言い切る。
北京オリンピックで砲丸の世界新が生まれることは無いだろうと言われている。辻谷氏の作った砲丸を越えるものが出来るかどうか。万が一開催されるとして、北京オリンピックの砲丸投げには注目したい。また、職人の意地が世界に伝わるか注目したい。
職人の砲丸製造の技
ま、だれでも高校生の頃の体育の時間に陸上競技の一環として砲丸投げを体験しているだろう。男子用は重さ7.26キログラム。誤差は+25グラムまで。つまり、7.26キログラムぎりぎりに作る必要がある。
材料は鋳物の鉄。しかし鋳物だと不純物として青銅や銅が混じり、また冷却する時の空気の混入もあり材質が一定にならない。このため単に球体にしたのでは重心位置が中心と合致しない。この鋳物を手動の旋盤で削るときに「削り音、光沢、旋盤からの手応え」を受けて重心を真ん中に持って行くように削る。全部で14工程を経て砲丸が完成するが、一度に100個作るとして全工程を終了するには1週間ほどを要する。
そもそも辻谷氏の作った砲丸をオリンピックに採用されたのは1988年のソウル・オリンピックだ。残念ながら辻谷氏の砲丸を選んだ選手は居なかった。当時の外国製の砲丸は色が塗ってあり削った生地のままの砲丸は選手が選ばなかった。
次のバルセロナ・オリンピックでは手に馴染むように筋を入れた砲丸を納めた。32個納めた砲丸は練習場で16個、競技場で16個に分けて使われたが練習場の砲丸が全部無くなってしまった。あまりの使い勝手の良さに会場から選手が持ち帰ってしまったのだ。
この砲丸が全世界の選手の心を捕らえ、先のオリンピック3回連続メダルを得た砲丸となっていく。
全国の工業高校に寄贈された砲丸
先の筋入り砲丸の禁止がアメリカの指示では無いかと職人辻谷氏は語る。その前後にアメリカから高額な指導料で技術を伝えて欲しいとオファーがあって断った経緯がある。職人の技は伝えきれるものでは無い。自分が納得できる製品が売れたときに材料費をくれれば良い、失敗作の材料費は受け取れないと職人を支えた鋳物工場の存在も大きい。技術を会得するまでの練習を支えた鋳物工場の存在が裏にあったのだ。
オリンピック用の砲丸は全部で100個作られる。実際に納品されるのは32個で職人辻谷氏の手元に68個が残される。全国各地の工業高校で講演の際に持参し実物を寄贈していく。いままで砲丸が寄贈された工業高校は20校以上。ものつくりの原点を職人辻谷氏は「ものを作れば失敗する時もある。失敗を恐れないでものづくりに挑戦して欲しい」と語っている。
たった一人の北京オリンピック・ボイコットはこうして形成された。