「かんぽの宿」一括売却は自民党&官僚政治の典型

経営責任が問われない
 最初に断っておくが今回の「かんぽの宿」の一括売却に不透明性や不正があるのではとの話では無い。国民から金を集めて放漫経営の後、後始末しても誰も責任を取らなくて良い仕組みについての話だ。
 事は非常に単純だ。取得に2,400億円を要した今回売却対象の「かんぽの宿」が日本日本郵政の発表によると毎年40億円の赤字が生じる事業で、これが重荷なので民間に売却して無いことにする計画。たまたま(か、どうかは知らないが)オリックス不動産が109億円(日本郵政の自己査定では資産価値は93億円)で落札したのだ。
取得額(2,400億円)- 売却額(109億円)=損失額(2,291億円)
の原資は加入者の簡易保険の保険料である。累積債務がありそうだが実はこれは国からの交付金等で補填されており郵政民営化で初めて日本郵政が負担することになった。これとて単年度の「かんぽの宿」だけで見れば収支は合っており債務は無い。
 この2,291億円も保険加入者の金を流用してつぎ込んで消えてしまうのに、その責任を取る者が居ない。これが自民党と官僚のなれ合いが続いてきた結果の制度欠陥だ。何をやっても責任を問われることは無いのであればまさに他人のフンドシで好き勝手やって、最後の始末はこっそりと行うって事の繰り返しになるのだろう。グリーンピア計画も同じようなものだ。他の省庁の利権構造を名前を変えて自分の省庁の利権構造にする、それが戦後続いていたのだ。そこにメスを入れないことが政治(自民党政治)の不文律であった。
 今回、鳩山邦夫総務大臣が横やりを入れなければ、「かんぽの宿」はすんなり闇から闇に葬り去られた事案が、何らかの政治的判断で表面に出てきたので国民の知るところとなったが、多くの事案はまさに闇から闇への道をたどって行ったのだろう。その詳細については後々明らかになるだろうが。

ほとんど随意契約に対する言い訳
 ここで断定するのは気が早いが、一方の当事者であるオリックス不動産は何も言わない。これはある種、「かんぽの宿」の処分に関して日本郵政に気兼ねする部分と思われる。日本郵政がお膳立てした路線に乗っただけで独自の意見を持っていなかったのだろう。
 一括売却にした理由の中に「雇用の確保」の厳しい条件(日本郵政談)があるのだが、各施設はかなりの部分を業務委託しており、たとえ土地入手額だけで61.8億円かかった「ラフレさいたま」では常用社員は5名しか居ない。他は民間であれば競争入札で業務委託している状態なのだ。そもそも、天下り部分は自分たちで押えて、業務部分は外注にするってコスト構造が先の「かんぽの宿年間40億円の赤字」を抱えることになるのではないのか。売上げを増やして立派な施設に育て上げたいって正社員が居ない構造で旅館のようなサービス業が成功するとは思えない。
 施設の建設費はどこから捻出したのか「簡易保険福祉事業団が、簡易保険の余剰金から建設」(日本郵政談)とのこと。簡易保険の余剰金って誰のものだ? 簡易保険に加入した人が本来受け取るべき「余剰金」を好き勝手に使って施設を整備したのだから、出来上がった施設は簡易保険加入者の所有物ではないのか。
 それを二束三文で売り払うのは保険加入者に対する背任ではないのか。
 実は同じような構造が昨年12月に明らかになった。NHKアーカイブがネットで配信されたのだが、有料なのだ。その金額は1時間分で300円程。そもそも、国民から半ば強制のように集めた視聴料で作った番組を国民が再度見るのに費用負担を求められるのだ。それがNHKの論理では「しごく当たり前のこと」らしい。しかも初年度40億円のを売り上げを見込んでいるそうだ。ま、蓋を開ければほとんど収益は無いと思うが。
 ここにもNHKは視聴料で作った作品は視聴者の所有物って感覚が欠如している。

負の遺産を切り捨てて健全経営
 小泉改革の時に一緒に旗を振った竹中平蔵元総務相が「かんぽの宿」問題で鳩山邦夫総務相に噛みついている。「かんぽの宿」は日本郵政にとって負の遺産なので処分を遅らせると国民に負担を強いることになるとの論調だ。
 ちょっと待って欲しい。竹中平蔵元総務相は「かんぽの宿」の実態を知らなすぎる。結局「かんぽの宿」を日本郵政から切り離して跡は野となれ山となれでしか無い。事業としての価値をまるで考慮しないで日本郵政が自己査定した93億円で売却することばかり考えている。
 「かんぽの宿」は平均利用率75%で民間の施設と比較しても遜色の無い利用率がある。ま、平均だから利用率の低い所は閉鎖するにしても十分採算がとれると思われる。オリックス不動産に売却するってのは更なる転売が前提になる。当然、転売はプラスの差益が入るから事業継続よりもリスクが少ない。利益を保証して一括オリックス不動産に手間暇任せてしまおうってのが日本郵政の書いた「かんぽの宿」売却シナリオだ。
 しかし、外需依存でメタメタになった日本経済を内需型に変えていこうってのが新たな国の方針ではないのか。とすれば、手間暇かかっても個別案件毎に事業継続を約束できる出来れば地元業者等に売却するのが筋ではないのか。
 明治の時代の官営工場払い下げと同じで、明治の時代も不透明な背景はあったが、それを参考事例にして国有(この場合は日本郵政の財産だが、根っこは国有と同じ)財産の払い下げと民間事業の発展を考えるのが政治だろう。

経世済民と経済
 どうも英語のエコノミーと日本語の経済は微妙にニュアンスが違う感覚があった。最近調べてみると明治の時代に中国語の経世済民から経済の語句が使われ、これを英語のエコノミに当て字(まさに当て字だと思う)したものらしい。
 経世済民は本来経済よりも政治に近く、世を治めて民の安泰な生活をはかることである。一方、エコノミーの語源は家計簿に近く、次の狩猟で食物が手に入るまでの間家族が食いつなぐ方策ってあたりが語源だ。
 大きな政府、小さな政府議論の前に、実は農耕を主とした経済社会では秋になって収穫ができるまで食物は手に入らない。目先の食料を備蓄し秋の収穫まで均等に消費して飢えないようにする機能が政(まつりごと)に求められる。今の日本では考えられないが、北朝鮮の政治に求められることがまさに経世済民なのだ。
一方、狩猟民族は足りなくなれば捕ってこれば良い。一人では効率が悪いからグループで行動するために最適な食糧計画としてエコノミーが必要だった。つまり、何時補給するかは自分たちが食料の在庫と相談しながら決めることが必要だった。
 秋にならなくても食料は手に入る。極端な話、狩りが出来る地域に移動して居住してもなんら問題は無い。農耕民族は食物を植えた土地を去ることは収穫まではできない。
 小泉改革はまさにエコノミー改革だった。本来の日本の政治が経世済民の政治だったのを方向転換してしまった。で、今、揺り戻しが始まっている。
 「かんぽの宿」は国民の財産であり、日本が内需拡大に向かう道具でもある。江戸時代から日本人は旅によって内需を起こしてきた。東海道なんかは江戸町民のお伊勢参りで落とす金でインフラが整備されて発達してきた。
 経世済民の政治が出来る政党がこれからの日本の経済の方向を決めていく。その意味では「かんぽの宿」は諸刃の剣で自民党にとっても民主党にとっても金の卵なのか命取りなのか、対応を慎重にしないと大火傷を負うことになる。



2009.02.04 Mint