有機農法の伝承
話をわき道に逸らすが、日本の農業の手法を考えてみたい。現在の農業はまさに「業」であり、農作物の生産も農協や農業普及員のスケジュールに準じて農薬散布や疫病対策が行われている。
しかし、農業の原点に帰ると、土地と太陽と作物が生み出す生産行為が農業であって、工業製品のような生産システムを指向しても得られる利益は少ない。せいぜい農薬まみれの農作物だろう。農薬はプラスとマイナスの面がある一般的な医薬品となんら変わらない。そもそも薬品とは、それぞれの副作用の中で人間に都合の良い効果を採用しただけなのだから。
で、話は有機農業に戻るが、実は、有機農業では単に農薬拒否では農業の「業」の部分を担えない。農薬や化学肥料を使わないためには現状の農業よりも手間がかかる。その手間、が一般のサラリーマンの手間(就業時間)と比べるとあまりにも少ないのだが、ま、これは容認するとして、作付けの工夫が有機栽培の要なのだ。
例えば我が家の家庭菜園ではチンゲンサイを作る。割と簡単な作物で、最盛期に市場で1個50円の時でも、ま、新鮮な野菜として重宝している。でも、これが羽虫に食われて葉っぱが残らないような被害を受ける。だから、春先か秋口の気温の低い時にしか作れない。
でも、混栽すると夏でも作れるらしい。具体的には菊科の春菊と混栽すると隣のチンゲンサイの食害が防げるらしい(今年の春に挑戦する予定)。
このように、混栽することにより、害虫の天敵をおびき寄せ、作物を保護する手法が有機栽培の基本になりつつある。何と何を一緒に植えると相乗効果がある、なんてのは研究(いや、経験)途上の有機栽培の技術だ。この方面を熱心に研究している農業関係の研究所はほとんど無い。有機栽培の基準を策定するのは熱心だが、畑一面に同じ品種を栽培する危険性と回避策の研究には不熱心だ。
農業の技術は農業の中に蓄積されるべきだが、現在は「農業」の生産行為が外部からの「営農指導」に振り回され、太陽と土地と作物のハーモニーである農耕にはほど遠いのが現実だ。
技術立国への国家戦略
時代の流れを敏感に感じなくてはいけない。製造行程はすでにアジアでは中国にバトンタッチせざるを得ないのが現状だ。しかし、技術立国としての日本の生きる道は残されている。逆説的に言うのなら、現在のアメリカのビジネスモデルであるパテント商売を日本は追いかけて追いつかなければ、この国の未来は無い。
実際目にする技術の中には海外の企業に生産が移管され、利益は日本に残らないものが多い。先の太陽電池もそうだし、LED照明の分野でも日本は先駆的ではあるが、ビジネスモデルを構築できていない。今後、電気自動車の普及に伴い需要が急増するであろうリチューム・イオン電池の分野にしても、日本は最先端技術の開発には熱心だが量産して普及させる戦略が無い。自動車用電池に関しては生産もされていない次期からヨーロッパが標準化を叫んでいるが、日本はひたすら技術開発ばかり行って標準化には関心が無い。世界標準に逆らってデファクトスタンダードを作れるだけの実績が無いにも関わらず。
例えばLED照明だが、半導体の生産にたけた日本では東芝に代表される半導体製造手法を用いて数百個のLEDを集積回路のように配置し、高輝度のLEDを生産している。しかし、このLEDを買って電球型LED照明とか、面的LED照明の機器を作る技術は技術レベルが低くても行える。
かつて、日本がCDの駆動、読み取り部品を輸出したら、韓国や中国から数千円のラジカセ攻勢をかけられたのと同じだ。心臓部を売り渡したら安い製品としてLED電気器具が日本に入ってくるのは先のラジカセで証明されている。
だから、技術開発の持つ価値を指向し、製造利益を上回る技術開発利益を甘受できる社会に日本は向かっていかなければならない。今の日本は、かつてトランジスターの営業マンと日本の首相を称したようなアメリカの悔しさを彼岸の災いとして自分自身に降りかかっているのだと自覚すべきだろう。中国をはじめとして多くのバッタモノを拒否し、日本の企業が開発した独自技術を守る「通商産業」政策が政府に望まれる。