時代に流されている教師達
「子どもたちを二度と戦場に送らない」ってスローガンと現場の教師の北教組(北海道教職員組合)に対する対応では真逆では無いのか。長いものに巻かれて時代に流される機運が先の戦争の背景にあった。言論人として言論にて疑問を質す代表格が教師なのではないのか。もちろん、ジャーナリズムの神髄もここにある。この砦が崩れると一部の人間に牛耳られた全体主義に発展する。
各現場の教師は職場の人間関係を優先して不都合には目をつむる態度で北教組(北海道教職員組合)の蹂躙を許した事実を、戦前の軍事ファッショと同じなのだと認識し、自分たちがそのような体制の片棒を担いてる状態で「子どもたちを二度と戦場に送らない」は嘘っぱちだと感じてもらいたい。
本来の教育のあり方をもっと学校の父兄や地域で話し合うべき。今回の件でどれほど国民の教師に対する感情が悪化したか。それを気にしないのなら公務員としての自覚が欠如している。学校の先生であることよりも前に、国民の税金で給与が支払われている公務員だとの自覚が欲しい。
先にも書いたが学生運動華やかな1980年代の事である。当時機動隊の親分であった佐々淳行氏の子どもが学校の女教師に「この中で親が自衛隊や警察官の人は立ってください」と言われ、立つと「あなたたちの親は日本を駄目にしてます」と糾弾されたそうだ。子どもからそれを聞いて佐々淳行氏は教育委員会にまで怒鳴り込んだと本に体験を書いている。このような非常識が教育の現場なのだ。だから、国民は教師のやることの異常性に恐怖心を感じてサジを投げた。
組織の論理で数を頼んで力を発揮する場面も必要だろう。しかし、それは自分たちの私利私欲では無く国民の利益を考えたもので無くてはならない。
組織が構成員から55億円も集め(預かり)、その資金運用によって特定の政治団体に選挙資金が渡るなんてのは、国民の利益から見たら糾弾されてしかるべきで、北教組(北海道教職員組合)が何の説明も無く「違法な組織への弾圧」と叫んでも説得力が無い。そもそも、北教組の強権で寄付金や主任手当を差し出した個々の教員はそれが正しいと考えていたのか。
ナポレオンの名言に「人を動かすものは、恐怖か利益である」ってのがある。北教組(北海道教職員組合)は当初は利益で組合員を動かしたのかも知れないが、主任手当がプールされるの及んで組織防衛の為に職場の人間関係による恐怖で動かしていたのではないか。それをテロリズムと一般社会では呼ぶ。そして、それは戦争への道を早める。
公務員の全ての選挙活動を禁止に
かねてから矛盾があるのが日本の議院内閣制だ。立法府の長が行政府のトップも兼ねる。この仕組みで一番都合が良いのは官僚だ。立法府から行政府への「睨み」が利かない。官僚は立法府との貸し借りの積み重ねで実質的に立法府を牛耳る。立法府の政策実行部隊が行政府である。その行使に当って立法府は行政府の不正を睨むのが役割なのだが、立法府をコントロールする機能が行政府側と真逆になっている。
自民党は行政府の利権を再配分する仕組みで政権の引力を保ち長期政権を続けてきた。対抗する旧社会党は選挙をイデオロギー主体の労働団体に頼り当選を狙ってきた。選挙の票に結びつく利権の再配布が野党では出来ないからだ。その野党だった民主党が政権交代によって与党になるための最後の決戦が2009年8月の衆議院選挙であった。
政策論争よりも具体的な集票が優先され(これが、小沢一郎氏の選挙戦術だ)政権交代後に数々の矛盾が出てきている。
その一端がイデオロギー的な組合任せの選挙の仕組みだろう。
衆議院の解散総選挙があると早々に事務所を構えた小林千代美衆院議員は選挙事務所の維持に金が続かず、今回の北教組(北海道教職員組合)からの資金提供となった。もっとも、北教組(北海道教職員組合)からの資金なのか委員長の個人的贈与なのか、はたまた、貸付金なのか、委員長の背任なのか、はっきりしない。だた、原資が北教組(北海道教職員組合)から出たのは間違い無い。これが、組合丸抱えの選挙の実態だ。
資金がショートしたら民主党に出して貰うのが筋だろう。民主党の公認候補なんだから。それを、北教組(北海道教職員組合)の中で処理するのは明らかにおかしい。筋の通らない金でも金は金だと考えたのなら、民主主義の根幹である選挙への冒涜だろう。
多くの教師からの内部告発が結局、教師の信頼回復に最も近いのだと現場の教師は懺悔と内部告発をすべきだろう。