権力と権威の勘違い、教育の現場

実体験を脚色して書いてます
 個人情報保護法なんてまっとうな法律が出来たのですが、ま、これを研究した僕としてはどうでもいいのですが、特定の個人を傷つける意図はないので、以下の文章は体験に脚色を加えたドラマと思って読んでください。
 教職を嫌悪したのは中学校の時代でした。僕の中学生体験は1964年頃の東京オリンピックの頃ですから今とは違うと思います。その点を加味して考えてください。中学校の二年生の時に「教生」が来たのです。教生とは教育訓練生(かなぁ?)、いわゆる教師になるための実地研修みたいな制度で実際に教室運営を体験する教師の卵が現場に来る制度です。
 この教生は今の僕の感覚で思えば基地外で、担任と一緒に授業をしている時と単独で教室を運営している時のギャップがはなはだしい。ま、中学校ですから、授業が終わってホームルームが終わると自らの掃除があります。この時に、授業での態度をむしかえして、正座反省とか廊下に立ってろとか連発するのです。今にして思えば熱血教師を目指していたのか、ま、当時の中学生の我々にとって基地外にしか見えない行動をとるのです。しかも、担任が居ない場面で。
 実は担任とは1年生の時からの繰り上がりで引き続きの関係だったので、解ってくれるだろうなって感覚を持ってまして、仲間と示し合わせて(これって、談合)授業が終わった後のホームルームで問題にしようってことに衆議一致しました。なんせ、文句を言うと「正座しろ」とか叫ぶ基地外だったのです(当時の感覚)。
 中学校のホームルームってのは出来そこないの民主主義の典型で上位下達なセレモニーなのに、民主主義の匂いを振りまいたエセ民主主義の典型なのですが、仲間と結託して最大限に利用しました。
 「では、終わる。何か無いか」って繰り返しのホームル−ムでしたが、手を挙げて論旨を述べました。
 「教生の先生に述べたいことがあります。教生って制度は教生の先生が教育の現場である学校で学ぶ制度だと思います。その教室で我々の日常生活であるクラスの存在をまったく否定して自分の考えを押し付ける態度に協力できません。我々と教生の関係って我々が教師で教生が学ぶのだと思いますが、横暴です。学ぶ気が無い教生はクラスとして拒否します。我々はモルモットでは無い、教生を教師の卵だと思いたい。だから、言わせてもらいます。あなたには教師は無理だ」
相談のとおり仲間が発言します。
「このクラスにはクラス独特の文化があります。その文化に馴染んでこその教生だと思いますが、自分中心の文化を強要されても私達のクラスの文化を壊す敵です。」
なんて、ホームルームが画策されて実行されて、当時の担任は解ってるタイプだったので「皆の意見は解った、考える」ってことでホームルームが終わった。
 で、翌日からかの「教生」は顔を出さなくなった。
 後に、女性の教生が来たクラスにもなったのだが、その顛末は別な時に書こうと思う。

「先生」なんて権力への恐れだけ
 「権威」と「権力」って二つの言葉を吟味したいと思う。教育の現場では教師は権力がある。評価を下すのだから民間の能力主義なんて考え方を1世紀も前に実現してたのが教育の現場だろう。ただ、それは何か解らない(実は文部科学省なのだが)基準に自己の判断を加えて人を評価する仕組みだった。その「権力」を自ら手にしていた、だから「権力者」なのだ。それを教育者だから権威があって皆が尊敬すると勘違いしてる。
 ここに日教組がえらそうに発言する土台の矛盾がある。いわゆる顧客満足度の観点に立てば教育者は現実社会では管理職なのだ。その意識が無くて労働者だと思わせる日教組の論点は根本から破綻してる。
 で、現場では権力を権威と勘違いした低能な教師が活躍(笑い)している
大学の事例で情報公開すると、めちゃくちゃ長い会議がある。民間感覚では電子メールで済む話を会議で話す。ま、事前に資料見れば解る話を会議で取り上げる。
絶叫したいのは、この資料で会議が永遠に続く。ま、納得するまで論議するって姿勢は評価するが、基本的に会議の効率って観点からは無意味な会話で、しかも関係無いぞって、他の教授はパソコンでホームページの検索しながら会議を聞いている。(一部、メールに返答書くので会議なんて聞いてない)
このあたりの会議の実態を見ると、「何故、こんな会議が許されるのだろう」って思ってしまう。
実は、これが教育の現場で60年間誰も疑問に思わなかった「会議」の実態なのだ。効率なんて概念は無い、ただひたすら会議のための会議で主張が繰り返される。反対意見には予め用意した返答書が答弁として繰り返される。相手の意見に答えるのでは無く、自己の主張を問答集から選んで繰り返す、議論では無くて互いに主張を述べ合う場が会議と呼ばれる。
 正直言ってアリバイ工作だ、議論した内容では無くて、議論した時間が実績であり権威を持つと勘違いしている。基本的に学生に単位を与えるかどうかの権力しか無い人間達が、学生に尊敬されて権威を持ちたいと格好付けているだけの会議を「会議に参加を許された「権威ある」僕」って感覚で運営してる」だけだ。正直、学生への義務なんて感覚はさらさら無い。組織の仕組みを周知徹底させるための会議が毎週繰り返される。

大学ですら授業が出来ない講師が居る
 僕の教師暦を話すと、大学で教える前にコンピュータ専門学校で講師をしていたことがある。時給に換算すると大学の半分以下だが、ま、会社のリクルート活動の一環と割り切って1年間担当していた。その状況は、授業が始まっても無視。unoが始まって誰も人の話を聞いていない。授業の最中に「ドロ−ツー」なんて会話が聞こえる。こんな状態も生徒は出席点って得点を得られる。試験は無くて僕には出欠を取って届けるだけが仕事だった。
 そんな講師を経て大学で非常勤講師を勤めることになったのだが、ある日同じ時間帯の非常勤講師とたまたま喫煙室で雑談となった。「先生の授業で私語は多くないですか」って聞かれた。ま、僕は「私語するのなら廊下に出ろ」って最初に言っているので講義の間に私語する学生は居ない。そもそも、何故、私語を慎まなければならないのかはオリエンテーリングの時に小学校を例にして話している。
 「この中で、教職課程に進む人も居るかもしれないが、相手が小学生であれ大学生であれ、規則を守れって押し付けては駄目。何故、規則があるのか納得させるのが教育。例えばザワザワ落ち着かないクラスがあったとする。授業に集中しなさい、私語は止めなさい、って言っても何も改善しません。相手に規則を押し付けてるだけですから。相手が小学生でも「何故、先生の話に集中してザワザワした私語を止めなさいって言うのか。それは、この瞬間に大きな地震が来たとします。地震が来たら給食の用意をしている場所では火を使ってますから火事になるかもしれません。その時に教室の前から出たら火事にあわないのか、後ろから出たら火事にあわないのか先生が伝えます。でも、私語でガヤガヤしてると聞こえない人も出てきます。私語をしている人は当然の報いと言えますが、私語で先生の指示が聞こえなくて火事に巻き込まれた人が居たら、それは私語をしてた人の責任です。教室では先生の言っていることが常に聞こえるように、私語はつつしみましょう。って納得させなければ教師ではないのです。規則を押し付けては教育では無いのです。そのことを覚えておいてください」と話します。
実は講義を受ける学生へのメッセージなのですが、例え話にして伝えます。
 で、先ほどの非常勤講師仲間なのですが授業にならない程私語が多くて、「最近の学生はどうなんてるんだ」って感覚なのです。自分のことを棚に置いてって典型ですね。しかも、家に帰って子供に「素人が専門家から相談されたぞ」って話したら、その先生は子供の高校の校長を数年前に定年で退職した方だったのです。
 ま、現場を離れていたとは言え、教師の基本である現場主義を忘れた結果ですね。ちなみに、本人の意向で1年で非常勤講師を辞められましたが、基本的に本人の意向では無くて本人の指導力不足だったと思いますよ。

権力の前に真摯になるのが権威
 最近、新渡戸稲造の「武士道(BUSHIDOU)」を読んでいる。最初に出版された英語版を読みたいのだけれど、日本語訳しか手に入らなかった。1899年と言えば明治維新から30年。日本が国際社会に参加しはじめた時代に新渡戸稲造は精神面で日本文化が武士道によって規律を構築してきた様を英語で記述したのだ。
 その中で統治する側の権力である武士が自身を極限まで律していたのが武士道で、これが日本文化の根底にあると述べている。
実は、民主主義と武士道が相容れない部分がある。一部のエリートによる統治は間違いって民主主義が唱えている点だ。人間は平等であるって考えが民主主義にはある。それ自体正確には「人間は法律の下では平等であるべきだ」て考え方なのだが、なんでも平等、所得も平等、所得格差なんて民主主義に反するって朝日新聞の格差キャンペーンに通じるのだが、基本的に経済構造の問題と人権って全然違う土俵を一緒にする「洗脳する朝日新聞」がまた出てきたかって感じだ。
 基本的に権力を持った者が守らなければいけないのが高度な自律。権力を振り回して何でも出来るのだが、あえて、権力によって物事を動かすのでは無く、人々の総意を導く権力として自らの力を生かす。ま、このあたり前のニセコ町の町長だった逢坂誠司氏あたりが上手なのだが。
 で、原点に戻るが、教師は権力がある。だから、その権力を権威に高める自律を要求される。権力の行使だけで満足するようでは教師失格だ。権力を持てば持つほど自律が要求されるってまさに新渡戸稲造が「武士道」で書いている階級構造を保つ上位の階級の自律こそが求められる。
権力だけで「先生」と呼ばれるようでは情けない。権威を強要する教生の例に見られるように、権力の甘い住み心地に安住しては教師では無い。そもそも、権力を手にしているって自覚が無いから権威を求めて彷徨することになる。権力を手にして自らを律する人に権威が付いてくるのだ。それが「武士道」の基本であって、わずか40年程の戦争への拡大解釈のみで日本が300年培ってきた文化を忘れてはいけない。士農工商が無くなった今、教育の現場では「先生攻撃(先制攻撃)、生徒う防衛(正当防衛)」になっている。本来、権威があれば攻撃なんか慎むはずだ。
 自律してない教師に教わる学生って事情は国家の損失である。で、もう手遅れ?

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