「坂の上の雲」に突っ込んで視界不良
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田原総一郎氏のパクリではあるが
まず、タイトルは最近の田原総一郎氏のエッセイのパクリである。ただ、彼には坂の上の雲とは何を指すかの定義は無いようだ。
習慣としてノンフィクションしか読まないのだが昨今の「坂の上の雲」ブームで何となく手にして読んでみた。その内容は小説では無く日清・日露戦争時代の日本のドキュメンタリーである。司馬遼太郎氏が「はじめに」で書いているように、この小説の主人公は日本、それも明治維新からの急速な近代化を走り抜けた日本である。
司馬遼太郎氏の描写は個々人の出身、人物背景、性格と世間の評価を入念に調べ、登場人物だけでも里見八犬伝の次に多いのではないだろうか。
そして「坂の上の雲」とは明治維新以来、近代化を進める日本国家の目標である。見上げればそこに見上げる雲が日本の目標として明確に存在した時代でもある。
司馬遼太郎氏は生前「坂の上の雲」は戦争賛美の面があるので映像化はさせないとの姿勢であったが、NHKは遺族を説得して初めて映像化を行い、昨年の暮れに第一部を放映した。出だしは伊予松山の正岡子規、秋山好古、秋山真之から始まるのだが、正岡子規が亡くなった後は日露戦争を中心にした戦記物の様相を呈してくる。
NHKは第二部を2010年12月、第三部を2011年12月に放送を予定している。
この小説の中には近代日本を形成した原動力は何かは書かれていない。当時の日本を考えると当然のことかもしれない的な説明が散見される。坂の上の雲が今の時代に脚光を浴びるのは何か、また、司馬遼太郎氏が配慮した戦争賛美の部分は何処から読み取られるのか、長編小説を読んだ感想と共にこれから読む人の参考にしてもらいたい。
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日清戦争と日露戦争
明治新政府が出来て日本の庶民が精神的に一番変化したのは「国家」が手に入ったことだろうか。それまでの江戸幕府は今で言う「地方分権」状態なのだが、地方は大名による幕藩体制で運営された。それが260年も続いた結果、身分制度の完成系として地域での家によるランクが定着した。庶民は誰の家に生まれるかによって一生が決まる閉塞感のある社会になってしまった。
それが明治維新で「国家」が庶民に与えられることにより生まれは人生を規定せず、自らの努力で国そのものを動かすことが出来る地位にまで上り詰めることができる。庶民の可能性を開くものが「国家」であった。
幕藩体制から比べると自由度の高くなった庶民だが「国」は構築中であり、諸外国から見たら日本は「国家」として体裁が整わず最低国待遇で扱われていた。
国を動かす(当初は長州藩、薩摩藩系人脈)人々にとって、諸外国はまさに「坂の上の雲」であり、手を伸ばしても届かない、ある種、目標みたいな存在であった。
植民地主義と覇権主義が国際ルールだった時代に日本も「坂の上の雲」を目指して自国の権利を得るために、他国の権利に侵略されないために外国との戦争を体験する。それが日清戦争であり日露戦争である。
司馬遼太郎氏は「坂の上の雲」の序章で「この小説の主人公は日本である」と書いている。明治維新を経て「国家」を得た日本人を描いていると言っても良いだろう。時代背景なのか戦争を通して日本人は「坂の上の雲」を追い求めた。
秋山兄弟の活躍により(それは、一方的な判断だが)キワドイ日露戦争の勝利まででこの小説は終わる。
どうも尻切れトンボの感がいなめない。日露戦争終戦後の小村寿太郎の外交交渉。そして微妙な国際勢力のバランスにより三国干渉を招き、遼東半島を返還させられる。そして、土地抜きでシベリア鉄道の権利が残り、これがその後の日中の戦争布告無しの泥沼の戦争へそして、国家の滅亡を招いた太平洋戦争へとつながり日本は全てを失う。
司馬遼太郎氏は日露戦争に勝利してもなお見上げる「坂の上の雲」は戦争の前と変わらずそこに存在したと刹那的に書きたかったのだろうか。それとも「主人公は日本人」をギブアップしたのだろうか。長編の「坂の上の雲」のエンディングとしていきなりエピローグに入ってしまう違和感があった。
「国家」を得てから官僚制度が始まる
明治維新から官僚制度が連綿と続いているとの意見は多い。太平洋戦争で日本国が消滅しても官僚は生き残ったとの意見も多い。しかし「坂の上の雲」に描かれる軍隊に実は官僚機構が秘められてる。その仕組みが官庁の官僚に受け継がれただけで、基本は明治維新後の長州と薩摩による国作りが官僚制度の根底にある。長州藩や薩摩藩出身者で人事を固めた官僚制度が続く。
庶民は藩の呪縛を離れて国家へと活動範囲が広がったが、実は国家は薩長によって作られた既得権益であった。それが官庁にも軍隊にも広がっていた。
司馬遼太郎氏は日露戦争は無謀であったと書く。その無謀さをあおったのは新聞であると書く。日本の新聞の歴史をひもとくと政治団体にその根源があり、外国のジャーナリズムに端を発してない。そのため日清戦争で何故勝てたかの分析を新聞は行われず、勝ったことにみをプロバガンダした。日清戦争における日本国の財政を含めた戦争履行能力が壁際だったのを国民に知らしめることが無かった。日清戦争音総括を行わずに、逆に新聞により庶民は日露戦うべしの世論を形成してしまった。と司馬遼太郎氏は書く。
官僚機構と情報操作は日本の悪しき伝統なのかもしれない。現在の朝日新聞、毎日新聞は焼け太り新聞と揶揄される。日本が焼ければ(人災、天災、戦争)シェアを拡大してきた。つまり、庶民ウケする瓦版から一歩も前に出ていない訳だ。
結局、先の太平洋戦争も含めて、一か八かの戦争に踏み切ったのはその前の戦争の後遺症である。日清戦争も日露戦争も戦えば必ず勝つ戦争では無かった。ましてや太平洋戦争は日露戦争を調停に持ち込んだアメリカ相手に戦争を仕掛け、その終戦に向けた調整をどこに求めるのか不明のままの開戦である。どう考えても勝利の目算の無い開戦であった。これが当時の官僚(軍隊)に解らなかったのは何故なのか。
それはたぶん、国家が官僚(軍隊)に占領されていたのだろう。一部の官僚(軍隊)により占領された国家は自ら滅びる。それは日露戦争を見てアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領が「皇帝の軍隊と国民の軍隊が戦えば、国民の軍隊が勝つ」と述べたように、一部の私物である私兵では国軍に勝てない。日米開戦時には先のロシアの悪しき轍を踏んだのは日本だった。
そして官僚(軍隊)のテロリズムに屈した政治家の自己保身が国家の方向を一部の人間の手に委ねてしまった。
そして現在も悪しき皇帝の私的軍隊
司馬遼太郎氏は新聞が嫌いと見えて「坂の上の雲」でも随所に世論形成を意図的に行う新聞批判が書かれている。今、司馬遼太郎氏が生きていたら政権交代を目にしてどのような評論を行うだろうか。
実は民主党は「民主」と言いながら皇帝の私的軍隊になっている。もちろん皇帝は鳩山由紀夫氏であり、その影の小沢一郎氏である。古き自民党も皇帝の私的軍隊の面が強かったが現在は皇帝不在である。一部の権力により動かされる組織の危うさが今の民主党に潜在的に存在する。また、その隙を突いて官僚(軍隊)組織が国軍を装って手を広げてくる。
「坂の上の雲」は非常に良くできた歴史書であると思う。出来れば、日清・日露戦争から太平洋戦争に至るまでを連続的に描いてもらいたかった。特に日露戦争が不完全な終了を迎えたことが結局太平洋戦争の火種になったって歴史の連続性を描いてもらいたかった。
司馬遼太郎氏は「坂の上の雲」で歴史の流れを描くとともに、細かく調べた人物描写も鋭い。どのような背景を踏まえて、その瞬間に決断、もしくは不決断したのか。当人の気持ちになって考えることが出来るまで細かく背景を描写している。
文庫本で全8巻ある長編小説だが、一度読んでおくと人生観や歴史観の形成に大いに役立つだろう。