終戦のローレライ>原作でも歴史観の無さが致命傷

終戦のローレライが伝える時代
 ここでは「ローレライ」は映画、「終戦のローレライ」は本と分けて使っている。
 今まで僕が先の第二次世界大戦を学ぶのはノンフィクションの書物が多かった。代表的なものは故坂井三郎氏の「大空のサムライ」だろう。それ以外に光文社ものは沢山持っている。本棚に並ぶノンフィクションの戦争ものを見て右翼と思われるかもしれないが、基本的に歴史を知りたいって感覚で昭和の時代を生きた人々の著書を集め読んでいる。
 数年前に野坂昭如氏の「終戦って規定は無い、常に時代は戦前なのだ」ってNHKの人間講座の話を書いたときに述べたが、歴史は研究するものでは無く体験した人々の記録から学ぶもの。だから、体験した人の記録を多方面から収集し実態に迫りたいって感覚を僕は持っている。決して一人の語りべだけを信じてはいけないと思いながら。
 フジテレビが後援する映画「ローレライ」は僕の今までの感覚の中ではドラマ「さとうきび畑の唄」と同程度の物語で、特にノンフィクションと比べると「劇画物語」でしか無く、お手並み拝見って程度の興味しか持っていなかった。
 フジテレビ721で「天国の階段」の前後に「ローレライ」の特集を流すので、ついつい見てしまう。
 僕の最大の興味は「我々より若い世代が描く太平洋戦争物語」って部分で、これは一時ブームになった「架空戦記」で一世を風靡した輩の作品に接して、やれやれな奴と思っていたのと多少は違うのだろうなと興味を持っている。「ローレライ」も同様なアプローチで失望した。特に出演する俳優は何処かで色が付いているので「終戦のローレライ(書物)」を映画化するのは全て新人を使った方が良かったのではないだろうか。
 歳を重ねたのか、終戦を戦後生まれの我々よりもさらに若い世代がどのように描くのかの視点で見たのだが、残念ながら著者には歴史観が無い。終戦のローレライは現代劇を描くと同じように、人間を描く視点で書かれている。単に時代背景を受けての人間のドラマでしか無い。書籍は最下部のリンクを辿ればアマゾンで購入出来る。これから読む人に、その内容を明かすような書込みは控えるが、とても映画では描き切れない個々人のキャラクターを時代背景と個々人のローレライに出会うまでの経験から描いているのは確かだ。映画だけで「ローレライ」を語らず原作の「終戦のローレライ」も是非とも読んでもらいたい。
 「規格外の兵隊」ってのは、現代的表現だが、何かをなす時に必要なのは頑強な「意志」で、過去に体験した事象から人間の行動が決められるとすれば、まさに「終戦のローレライ」に登場する人々は規格外であり、短い長いを問わず体験を通して今の行動があるって人間の体験に立脚して行動する。
 過去は現在を規定するってことだ。
 過去の積み重ねしか個々人が他人と違う人格に育つ要因は無い。人間は個人で生きながら集団で生活する。その事実を終戦を背景にしながら描いているのが「終戦のローレライ」なのだ。

生きる時代は選択できない
 昔の冷戦の時代に日本とアメリカの関係を問われた外交官が「兄弟です」と答えた。新聞記者がその本意はと問い続けると「友人は選べるが兄弟は選べない」と答えた。これは都市伝説の域を出ないが、基本的に日米関係を象徴する発言だと思う。選べない関係なのだ。
 同様に我々は自分の生きる時代を選べない。生を受けたこと自体が自分の存在の基本なら、生きていく時代背景は選択の余地も無く、生まれた時代を語る人生論は意味を持たない。人間は時代背景を受け入れた人生を余儀なくされる。ま、このようにインタネで言いたい放題出来るのも時代背景だろう。明治時代だったら、同人誌に投書しながら実績を重ねて自分の意見を広める、そんな手法しか無かったのだから。
 なんとも不思議な事ではないだろうか、全知全能として地球に君臨する人間は、実は時代、歴史、時間に逆らって人生をおくることは出来ない。科学技術について言えば、生まれた時に既にテレビ放送が存在した人間とラジオ放送しか無かった人間と、この不公平と言うかどうか別にして、時代背景の差が個々人の人生に歴然として存在している。
 もっと大きな視点で考えると、我々の遠い祖先は獣と人間の差も明らかにならない時代に生存のためだけに生きていた。人間が死ぬって事態とイノシシが死ぬって事態がたして大きな差がなかった時代。たぶん、僅か3000年程前の時代だろ。映画「2001年宇宙の旅」がファースト・シーンで描いている人類はまさに、そのような時代に生きた人々(動物としての人間か動物の一種族か解らないが)も同じ人類だ、人間とはなんだってことを描いているのだろう。
 終戦のローレライは日本の有史以来最初の敗戦をどのように受け止めるかで右往左往する人々。自分の信じていた人生観が崩れ去る刹那、何が正しくて、何が正しくないのか、その判定は歴史に委ね、目の前の事柄を瞬間々々決断し対処して行かねばならない「運命」の当事者として生きていく姿が描かれてる。時代を受け止め、逃避せずに生きていく前向きの勇気が描かれている。

戦中の意味有る「死」、戦後の意味ある「死」
 考えてみると意味有る「死」を人類が意識したのは何時頃だろうか。少なくとも日本に限って言えば、武士道なんて考え方が出た頃からだろう。これは単に日本人だけの話だ。つまり意味ある「死」は個々の民族の文化である。西欧ではどのように捉えられているのか知見を持たないが、日本では武力が統治の原点であった時代に武力を持つ個々人には組織を維持する兵隊(文字どおりの、駒として兵隊)として生きることを求めた。それが武士であり、独自の文化としての武士道だった。
 その文化を積み重ねて1940年頃の日本の軍隊は教育では「意味有る死」を叩き込み兵を動かした。実際には統率する組織と駒は別扱いで、どっちにしても負ける戦争であった太平洋戦争に兵は常軌を逸する犠牲を強いながら、統率する組織は国際感覚も欠如し、戦略も無く、個別の局地戦すら場当たり的で、「悪い負け方」に陥ってしまった。戦略的に負け方を考察するのでは無く、とにかく「死」ありきなのだ。
 その定見の無さに嫌気が差した反動が進駐軍駐留以降の日本人のアメリカ忠誠文化だろう。結局、昭和天皇にまで溯ることはしなかったが、軍政の指導部に対して建前では従うが、本音ではNOだった日本人。それを「時代だった」と安易に肯定してしまう日本人。ここに戦後の平和教育の欠陥があるのだが、それは別項で触れることにする。
 日本人が時代背景を受けて、それぞれの個人が生きた記録。これが終戦のローレライでは描かれてる。ただ、一生懸命さは解るのだが、架空戦記と戦える程の歴史観を僕は感じなかった。登場する個々人は時代背景を強く背負っているように描かれていない。特に背景を1945年の日本の終戦に絞る必然性を感じない。同様な小説を明治維新を背景にも書けるし、バブル崩壊を背景にも書ける。
 数十年ぶりに徹夜して読む本ではあったが、描かれてる特に時代背景には、現在の若者に理解できるまで細かく描かれてない。まして、登場人物の個々の思想に関しては、例えば、首謀者の浅倉に至っては当時の時代背景を考えても気違いでしか無い。
 思想に説得力が無い。若き征人にも論破される底の浅い思想。これが、帝国海軍きっての切れ者との説得力の無さには徹夜で読んでいる僕の頭の中でも「これは、踊る大捜査線かぃ」と悪態をつきたくなった。

経験に学び過ぎの人生観
 ここまで読んできて僕が「終戦のローレライ」に非常に批判的であると読めるのなら行間読みが出来ていないか僕の表現力の無さだろう。一部の局面にだけ着目すると、まさに徹夜させる筆力が「終戦のローレライ(書籍)」はある。
 それは大きな局面では静と動の使い分けが優れている。戦争を背景に描かれてるので当然とも言えるが、指令は何か、ローレライとは何か、究極の目的は何か、の各段階で静と動の描き方がメリハリに富んでおり、ここまで読んだから寝ようと思わせない連続性が文章にある。だから、寝ながら読み進めて、朝まで読んでしまう。この躍動感は昨今の小説には無い「終戦のローレライ」の特徴だ。サラリーマン生活の身としては週末に読むことをお勧めする。
 つぎに、個々人の行動が個々人が経験した人生とともに説明されている。詳しくは読んで感じてもらいたいので書かないが、何故こんな行動に至ったのかを、ある時は経験から説明し、ある時は行動後に描かれる。
「伊507」の抹消された船籍の潜水艦に集う人々の集団としての連帯感が醸し出される過程を描く手法には唸らされる。読み進む最初はSF的でローレライとは何かが漠然とし過ぎる。ここに違和感を感じてしまう人も多いと思う。文庫本で全4札の最初の一冊を薄くしたのは、この小説全体の流れに違和感があるのなら最初の一冊で判断してくれって意志の表明だろうか。
 終戦の(僕流に言わせてもらえば敗戦の)1ヶ月前の1945年7月から始まるこのドラマは日本人が戦後60年で、どうでも良い過去と消し去りたい過去の亡霊をまた現在に引き戻した。しかし、どうなんだろう、日本とアメリカが戦争したって事実を理解出来ない(これは、日本の歴史教育の欠陥なのだが)世代に「終戦のローレライ」がどこまでアピールするだろう。
 終戦のローレライを解る世代は既に過去の世代なのだ。それを解っているのかフジテレビの感覚と経営に一抹の不安を感じる映画の「終戦のローレライ」である。

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2005.03.20 Mint