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普天間移設は外交の既定路線
鳩山由紀夫総理は昨年8月の衆議院選挙でスローガンにした「最低でも県外」との普天間の米軍基地県外移転に固執するあまり、国内外両方から不信感をもたれリーダーシップの無さを指摘されている。そもそも普天間の辺野古への移転にはどのような過去の経緯があるのか知ってから発言すべきであったし、今の段階でも普天間移転の原点に戻るのは妙な「腹案」を出すよりよっぽど政治家の「大人の対応」なのだが、妙に意固地になっている。 14年も前に話は遡る。住宅地が近接してきた普天間基地の移設を検討して来た1996年の日米特別行動委員会(SACO)は普天間基地の返還と代替空港の沖縄本島東海岸への設置の方向を出した。これを受けて辺野古沖合ヘリポート案がまとまった。しかし、98年2月に大田昌秀知事が受け入れを拒否、知事選挙後代わった稲嶺恵一知事が99年11月に辺野古への受け入れを表明する。その後3年に渡って形態の詰めが行われ、普天間の沖合埋め立て空港移転に落ち着いた。ただし、沖縄県からは15年の使用期限設定とか未解決の問題も多く、着工には至っていない。 2004年8月に米軍ヘリ墜落事故があり、放置されている普天間移転問題の再調整が行われ2005年10月に15年使用の期限設定無し、そして住宅地から沖合に1600m級の海上埋め立て滑走路に落ち着いた。 しかし、この案に滑走路の延長線上に市街地がある名護市がまったをかける。2006年1月の名護市選挙で初当選した島袋吉和氏が2006年5月に2本の滑走路を持つV字案に変更させた。また名護市はさらに沖合に設置するように求め、2006年11月に初当選した仲井真弘多知事もこの名護市の主張を支持している。 アメリカは普天間の移転先として海兵隊の地上部隊とヘリ部隊、加えて両者の演習が可能な場所を要求しており、現在の日本では北海道の苫小牧東にしか土地が無い。その案が日本から提示されたが、軍事戦略的見地からアメリカからは拒否されている。 現在の民主党の案は二転三転するが基本は普天間の県外移転で鹿児島県の徳之島に滑走路を移転。野辺地の内陸の現在の演習地を拡大の方向にある。が、地元の反対運動に火が付き県外完全移転の世論が形成されつつある。 |
2010.04.19 Mint
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