独裁とリーダーシップの違い
中国が先進諸国の仲間入りする時に懸念されるのが共産党一党独裁の現在の政治システムになる。国連に加盟する国々の半数以上が独裁政権で選挙によって選ばれた政権を持たない。国連至上主義の小沢一郎氏の政策が必ずしも的を射てないのは国連にこの背景があるからだ。
現在の選挙による民主主義が必ずしも国家運営の完成型とは言わないが、少なくとも選挙による民主主義にはリーダが判断を間違えばリーダーを交代させる仕組みがある。
中国共産党の一党独裁が国際社会で通用しないのは、判断の結果の是非を国民が判断しリーダーを選択出来る仕組みが無いからだ。
国民から選ばれた総理大臣が国民の声を聞くのは当然だ。しかし、最終判断は誰かの意見では無く、少なくとも「国益」をキーに自らが判断しなければならない。
その意味で普天間問題を「国民、県民、アメリカ、連立政権の合意の元に行う」のは、不可能なのだと「判断」すべきだ。故に、アメリカの意向を最優先に、その結果を影響する各方面に根回しする。それがリーダーの役割だろう。
1960年代の日米安保改定の時に国民の国会を包囲するデモで当時の岸総理大臣が退陣に追い込まれたのは日米安保改定の是非でな無く、A級戦犯指定(あくまで指定)を受けた岸信介総理大臣に再度の戦争のにおいを感じた国民の岸信介総理へのNoであった。実際、問題は多いが改定された日米安保を解消する動きは岸信介退陣とともに急速に終焉に向かう。つまりは、安保改定反対では無く、岸信介反対の運動だったと後から解る。国民は日米安保に反対してる訳では無い。
リーダには資質が求められる。それは判断し責任を取る行為だ。
余談だが会議五悪説がある。会議を重ねても意味が無いのは何故かって指針である。
1)会せず
2)議せず
3)議して決せず
4)決して実行せず
5)実行して責任取らず
このどれかが会議を無意味なものにしているのだ。
実際、鳩山由紀夫総理の行動にはこの会議五悪に通じるものがある。
強いリーダーとはヒットラーでは無い
ヒットラーが当時のドイツ国民による選挙で選ばれたのは事実。独裁者と呼ばれる彼は実は国民の選挙によって選ばれたのだ。後世「ヒットラーの不幸はあのチョビ髭が似合わないと諌言する部下に恵まれなかったこと」と言われるように、選んだ後に独裁を許した周囲に欠陥があった。もちろん、ヒットラーが独裁継続のために反対する者を切り捨てたのも事実である。
リーダは自らの判断で決断しなければならない。他人の意見は参考にするが、決断は自分自身で行う。もちろんその結果にも責任をとる。
結果責任を取れない者が独裁者である。結果責任を取るためには、自らの決断に由来した結果でなければ取れるものでは無い。他人の意見に左右されて決断した時にはその結果責任も他人任せになる。それが処世術だと鳩山由紀夫総理は62年間生きてきたのではないだろうか。それが性格にひいては資質に反映されている気がする。
このリーダーシップの無い総理大臣は過去にも沢山居た。ただし、それらの総理に総理大臣が務まったのは周囲に恵まれたからだ。現在の民主党政権はまさに「鳩山総理はリーダーシップを発揮する姿勢が無い」と諭す周囲に恵まれて無い。
引退を決めていた藤井裕久氏を再度選挙に担ぎ出し財務大臣にまで登用したのだが、小沢一郎氏の意見を入れて辞任に追い込んでしまった時に鳩山由紀夫総理の行く末が決まったのかもしれない。他の執行部のメンバーは代表選挙を戦った政敵ばかりなのだからリーダーシップを発揮しようにも「言うことを聞かない」状態だろう。