武士に二言は無いは品格の問題
「国家の品格」がベストセラーになった頃は小泉純一郎政権が終わり自民党のタライマワシ政権の時代だった。国民は「品格」ってことばに異常に引きつけられて「○○の品格」シリーズの本が雨後の筍のように出版された。
今一度振り返って見るとやはり鳩山由紀夫総理の問題は「品格」の問題なんだろう。正確に言うと「総理の品格」である。過去日本の総理大臣には多々問題があったが、少なくとも「総理の品格」を兼ね備えていたのは戦後では佐藤栄作氏だろう。2番、3番手に小泉純一郎氏や池田隼人氏が来ると思う。
では「総理の品格」バロメータを利用して現在の鳩山由紀夫総理と他の総理と計りながら比較すると、現在の鳩山由紀夫総理は「総理の品格」パワーで誰に近いだろうか。
ずばり、麻生太郎氏と同等なパワーだと思う。上を見るとキリが無いが下を見ると宇野宗佑氏(1989年6月3日-1989年8月10日)、羽田孜氏(1994年4月28日-1994年6月30日)、などが並ぶだろう。
共に戦後内閣の政権期間としては2年保たなかった。野球で言えば「中継ぎ投手」であった。それも短期リリーフである。今回の鳩山由紀夫内閣も同じ道を歩むとしたら、それはやはり「総理の品格」の問題だろう。
それは「宇宙人だからなぁ」とか「言葉が軽いなぁ」とか評論していた時期を過ぎ「鳩山辞めろ!」に評論家が変化したと同じく、国民も変化している。ただ、我々国民は評論家のように単に辞めろとは言えない。じゃぁ、ポスト鳩山由紀夫総理に誰がふさわしいのか。それを見極めなくては話は前に進まない。
このあたりの問題になると普天間基地移転問題だけに焦点を当てられなくなる。総合的に見て現在の鳩山由紀夫政権の是非の問題として考えなければならないからだ。
政治家には再チャレンジは許されない
鳩山由紀夫総理の後継者を考えるときに思い出すのが安倍晋三総理が提唱した「再チャレンジ」。ま、内容はともかくバブル崩壊の当事者と言うか被害者と言うか、そのような人にも再挑戦のチャンスを与えようって考え方だ。
実は自民党政権の末期。小泉純一郎総理退陣後の安倍晋三氏、福田康夫氏、麻生太郎氏はこの再チャレンジ組みだったのだ。安倍晋三氏は直接的には違うのだが、何への再チャレンジかと言うと自民党総裁選である。福田康夫氏はポスト小泉の自民党総裁選挙に自ら不出馬を宣言し、政界引退すら噂された。麻生太郎氏は「3度目に正直って言うが、俺は4度目だからなぁ」って最多の自民党総裁選の再チャレンジ組みである。
で、その結果どのような政治を行ったかは歴史に刻まれている。
実は政権交代を達成した民主党も再チャレンジ組みが実に多い。前原誠司氏、岡田克也氏は代表経験者で辞任経験者だ。当の鳩山由紀夫氏も同じ。小沢一郎氏も代表経験と辞任経験がある。菅直人氏も同じ経歴を持つ。
つまり、ポスト鳩山由紀夫総理で取りだたされている面々はいずれも「再チャレンジ」組みだ。
先に書いた「総理の品格」とは、一度トップになったら使命を全う出来るだけの人格と品格が備わっているってことで、その意味でも「再チャレンジ組み」は何処かその要素が欠ける故の経歴では無いかと与野党を問わず思う。
政治家は素養が大きく影響するので一度駄目なものは駄目ってことなのだろう。その歴史的経験を生かしてポスト鳩山由紀夫総理を考えると現在の国民が「総理にふさわしい人」の序列が見えてくる。国民は次期総理大臣に再チャレンジ組みは外して考えている。
そして「みんなの党」の人気も見てくる。
「既知数」による閉塞感を経験した国民は「未知数」に期待してしまうのだ。それは取りも直さず政治が招いた閉塞感であり、日本政治の空白の10年である。明治維新前夜の閉塞感と通じるものがあるだろう。試行錯誤の時代が。たぶん、今後の日本はこの試行錯誤の時代を当分続けざるを得ないだろう。政権交代もこの試行錯誤の一環だ。政治が経済成長戦略を持つのは日本の国民特性だ。それをアメリカ的な市場原理主義にしてしまったのが国民の政治離れ、ひいては政治への閉塞感を醸し出してる。
マスコミで漂流している評論家に今時点でポスト鳩山由紀夫総理の予想と実現の時期を「命を賭して」評論してもらいたいものだ。
普天間基地移転問題だけでは無い、評論とは世論を正しく導き、結果として正しくなかったら責任をとるべきだ。新しいネタばかり追いかけて結果責任を省みないのなら競馬の予想屋と同じだ。いや、上から目線なのでよりタチが悪いかも知れない。