小さな政府と、大きな社会
的確な日本語訳を思いつかないが、イギリスのキャメロン首相の提唱する「大きな政府(ビッグガバメント)」ではなく「大きな社会(ビッグソサエティー)」の建設の考え方だ。日本ではマンガのクレヨンしんちゃんですら幼稚園児が「国がなんとかしてくれるよ」と叫ぶほど国への依存が大きい。
戦後教育の現場は教職員団体による条件闘争の場で教科書に何が書いてあろうと要求を突きつけるのが国民の権利だと教えられた。そのために政治家は選挙で必ず何かを国から持ってくることを公約にする。民主党政権になると広くあまねくバラマクようになった。全て「国がなんとかしてくれる精神」だ。そして、これが鳩山由紀夫元総理につながる国家観であり、戦後教育の延長であり、その歪みでもある。
高度成長時代は企業を支える戦士の育成を行うと共に、何かあったら企業に責任を求めるのでは無く、国が企業に替わって責任(補償)を行う社会の仕組みが出来上がった。数々の公害問題は発生企業のみでは無く国の責任が裁判の土俵に登った。
この「国がなんとかしてくれる精神」が結局、巨大な赤字国債を積み上げた一因である。あくまで一因であり、利権政治もその意味で一因である。
大きな社会(ビッグソサエティ)は「国がなんとかしてくれる精神」にこたえて国が福祉の充実をはかればはかるほど、借金が膨らみ、結局国民もしくは次世代にツケを回すことになる。国は企業では無いのだから、収益を生むことが出来ない。入る税金を越えて支出すればそれは借金で賄われ、回り回って国民の借金になる。
高福祉社会は大きな政府になる。それを避けるには小さな政府と大きな社会の形成だ。但し、キャメロン首相の主張には多分に右翼的な部分があり、家族を典型的な社会の構成員としているが、これは間違い。家族構成は多様で画一的では無いし、片親やシングルマザーの家庭もある。その多様な家族を子どもは親に従え、主婦は家事に専念せよとしなければ実現しない「大きな社会(ビッグソサエティー)」後送は間違っている。
大きな社会(ビッグソサエティー)は規制緩和で
戦後教育バリバリの世代は大きな社会(ビッグソサエティー)に反抗的である。戦後教育が「公」より「個」を優先したために、「公」が出てくると個が侵害されると教えられたからだ。日教組の考え方は単純だ。「公→国家優先→戦争→生徒が戦場へ」ってものだ。国家の支配下にある「公」と社会が自然と具備する「公」の違いが解っていない。しかも「公」に否定的だ。
昨今は坂本龍馬ブームだが明治維新前夜の時代を考えてもらいたい。当時は国家(幕府)は国民に何もしてくれなかった。国民の目の前にあったのは藩である。特に教育に関しては町民と藩とが共同で寺子屋を運営し、師弟の教育にあたった。広い意味で社会が未来を担ったのだ。それが、明治維新以降、国家が教育を担うようになった。もちろん、国会に便利な国民を育てる方向に向かった。
標準語は典型的で、各地から集められた陸軍士官が言葉のなまりが強くて命令が伝達出来ないので兵隊教育のために標準語を制定し、これを全国の学校に広めた。
明治維新の薩長支配による軍隊制度が太平洋戦争の終結とともに無くなったが、恐竜が絶滅しても鳥類として生き残ったように、陸軍は無くなったが官僚に形をかえて今でも残っている。
そして、明治維新以降、日本が歩んできた中央集権はますます強化されている。そこには国家としての「公」の匂いを感じるのは日教組程度の能力ではいたしかたの無いことかもしれない。
しかし、イギリスのキャメロン首相のような家族を最小単位にした公は現代では難しい。標準世帯なんてものは幻想なのだ。平均値から推し量るモデルは実際には存在しないものなのだ。
実は、この大きな社会(ビッグソサエティー)はネットの中で形成されると思う。それもバーチャルでは無く実社会として。ネット社会では工場直売が可能だが、実際には小売店がネット販売に移行していくように、実社会で必要なものはネットの中にも実現していく。制度や仕組みは多少の変更を余儀なくされるだろうが、先の恐竜と鳥類、陸軍制度と官僚制度のように形を変えて連綿と続いていく。
特にネット社会の進展は来年の地上派デジタル移行に伴いデジタルテレビが普及するが、これにはブラウザが付いている。つまり、一家に1台テレビが普及した昭和の終わりと同じように最低、一家に1台ネット端末が普及する。
パソコンとキーボードを必要としたネットがテレビとリモコンでも可能になる。この中に、つまりネットの中に大きな社会(ビッグソサエティー)が作られる。それは実社会と連動した「新しい公共」と言えるだろう。
実社会との連動には規制緩和が欠かせない。「国がなんとかしてくれる」社会からの脱皮には強い政治指導力が求められる。それをイギリスのキャメロン首相を反面教師に実現していくことが必要だろう。