ジャーナリストにのみ国に迷惑をかける正当性があるのか
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ジャーナリストだけが特別では無い
田原宗一郎氏は ここで「ジャーナリストの使命」って言葉を使っている。はたして今回の事件がジャーナリストの「使命」だったかは置いておく。何故なら、後藤氏の件に関して様々な意見が飛び交っているがその真実に迫る情報が得られるにはもう少し時間が必要な気がする。そもそも、湯川氏と後藤氏の関連が明らかにされていない段階で、何を目的に後藤氏がシリアに入国したのかも定かでないので論評は控えようと思う。
で、ターゲットは田原宗一郎氏だ(笑い)。
ジャーナリストに「使命」があると言う。それは国民が認めたものだろうか? 単に使命感を持って行動するのなら表現として解るが自称ジャーナリストが百科争乱のネット時代に、単に大手新聞社に在籍して者だけがジャーナリストでは無い時代になっている。
ま、「自称ジャーナリスト」はネットの世界には沢山いる。そもそも日本記者クラブに属さないのが本物のジャーナリストって標榜する自称ジャーナリストも多い。
そもそもジャーナリストとはと考えるとルーツは「トップ屋」である。瓦版の記事を起こす職業だ。それが、明治維新を迎えて政党政治って場面になって政党の機関誌として印刷されてやがて朝日、毎日に代表される商業新聞に発展した。
新聞のルーツは政党の機関誌なことを知る人は少ないが、所詮、広報を必要としたのは政党だった。だから、現在も含めて新聞ってのは政治色が強いメディアなのだ。
問題は放送で、その政治色が強いメディアが株主となって放送免許が認可された。現在のテレビやラジオは放送法の適用を受ける。これは「不偏不党」とか「公正の論理」とかを法律規定した国の電波行政の対象になるからである。母体の新聞社は適用を受けない。
ここが国の報道に対する二重性を生み出している。また、新聞社が紙面での主張と放送での主張を理解していない局面も生じている。
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ジャーナリストは特別?!
生命の危険を顧みず戦争の地におもむくのはジャーナリストの使命だろうか。実は現地でなければ得られない情報はネット社会の発展と共に失われつつある。現地でなければ得られない臨場感の体験は確かにあるだろう。でも、それは公のものになりうるのだろうか。
前に「戦争を語り継ぐ」運動は偏っていると書いたことがある。歴史認識を成熟されるためには個人の体験をいくら積み重ねても得られないと思うからだ。個人の体験は時代の断面であり、断面を沢山(無限にって意味)集めなくては全体像は得られない。
まして、生き残った人の体験だけで良いのだろうか。歴史の断面は戦争で亡くなった火地も体験している。しかし、それは物理的に「語り継ぐ」ことは出来ない歴史の断面だ。だから、先に書いた「断面を沢山」には無理があるのは自明だ。だから、体験とか臨場感ってのは全体を見る目を曇らせる情報でしか無い。それが無意味とは言わないが主流では無いってことだ。
ジャーナリストが危険地帯に潜入して情報を入手するのは「使命」では無い。公務員が公務としておもむくものと本質的に違う。誰も命じていないのだから。
だから、自己責任とか言う前にジャーナリストの使命感を尊べという田原宗一郎氏の意見には無理がある。いや、ジャーナリストとしての上から目線でである。自己の正当化のたにする論議であって国民の共感は得られない。ま、田原総一朗さんがそう言うのならそうだって自分で何も考えない国民には受け入れられるかもしれないが。もっとも、それ自体がジャーナリズムの死なのだが。
言い方は正確さに欠けるかもしれないが、国民は等しく政府の保護を受ける権利を有する。それはジャーナリズトだけに特別なものでは無い。
日本国憲法はそのことしっかり明記してる。
その一部として、憲法第13条には「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」とある。
趣味で太平洋横断に挑戦して遭難
少し前の事件になるが辛坊治郎氏がヨットで太平洋横断に挑戦した時にクジラと衝突してヨットが沈没、救難ボートで脱出した所を海上自衛隊のU-2機により救出された事件があった。
ネットでは「個人の趣味に税金を支出させた悪人」とかの意見も散見され、これに対して当の辛坊治郎氏が「それ以上の税金を今まで払ってきてるわい」とか、まったく次元の低い論争に発展した。
基本は日本国憲法である。
主権者である国民は「公助」を受ける権利を有すると憲法は保障している。その権利を担保するために「納税の義務」「教育の義務」(国の将来に向けて保護者に保護対象の子供に教育を受けされる義務)「勤労の義務」を定義している。少なくともこの義務を果たしている日本国国民は「公助」を受ける権利を有すると考えるべきである。
では、今回の後藤氏は国民の義務を果たしていなかったのか。全然、そんなことは無い。積極的に国民の義務を果たしていたと言えるだろう。一方の湯川遥菜氏については疑義を挟む余地があるのは事実だが。
例えば、飽食を繰り返し、メタボ治療が必要と言われ続けたのだが、やがて腎臓障害を併設して人工透析治療を受けることになった国民を考えてみよう(但し、筆者は全ての人工透析患者がこのような理由で発病したとは考えていない。「極、一部の」とあえて付け加えておく)。
現在の国保制度では市町村単位に会計が独立しているが、人工透析患者を抱える国保会計はかなりの財政負担を強いられる。
これとシリアに行ってテロリストに拘束されたジャーナリストの救援に向けて投入された税金とは全然別なものだろうか。
メタボで成人病を患い、投薬を受けている患者の投薬費用の70%は保険料から支払われている。これとテロリストに拘束されたジャーナリストの救援に向けて投入された税金は全然別なものだろうか。
ある意味、若干の我が儘も含めて個人が行動した結果生じた生存権の危機に「公助」が行使されている。それが、ジャーナリストであれメタボの会社員であれだ。
「公助」への監視は必要だ
かと言って、中国残留孤児の方が親族郎党引き連れて帰国し、当面の生活は生活保護ってのはどうだろうか。私に言わせると国民の義務を果たさないのだから国民の権利も主張できないと思う。
だから、本来日本国政府はこのような状態を「難民認定」として扱うべきなのだが、中央官庁は責任放棄して地方自治体の判断に丸投げしている。だから、神戸市なんかで「大阪市に行けば生活保護が受けられますよ」なんて事態が発生する。
国民に義務だけを強いて権利を認めないのはおかしいが、権利だけ認めるのはさらにおかしい。それに対する監視がジャーナリズムに無いのが現状だ。
本論に戻るのだが、田原総一朗氏はジャーナリストにだけ特別の「使命」があって特別の権利があるように語るが、それは基本的に間違っている。国民は等しく義務があり権利もあるのだ。
報道目的でシリアに入ることも、メタボ指導を受けながら改善の努力しないで発症し高額な医療費補助を受けることも同じだ。共に、本来の用法である「確信犯」である。本来、人に迷惑けかない生活を日本人は心がけてきた。それでも、国家は憲法に従って「公助」を発動する。それはジャーナリストだけ特別扱いしたものでは無いってことだ。そこを田原総一朗氏は勘違いしている。
今回の事件は不幸な結果に終わったが、それは後藤さんの「使命感」が招いた結果であった。後藤さんの使命感は崇高なものだと思う。ただ、それはジャーナリスト全体に普遍化して適用されるものでは無い。現にマスコミは湯川遥香氏については詳細情報を広報していないじゃないか。数字稼げない内容だから勝手にネグレクトしてるのだろう。
戦地であろうがメタボであろうが、「公助」が発動されている現状を正しく伝えるのがマスコミの使命である。しかし、ジャーナリストだけが守られる「使命」なんて報道をしている時点でマスコミは真実から乖離するミスリード媒体に陥っている。
メタボ治療もシリア入国も日本国憲法から見たら同じ「公助」の適用である。