憲法を変えても官僚支配から脱却できない日本

行政は「制度設計」の仕組み
  政治家は国民が選挙で選ぶ。その政治家は立法府を担う。常識の範疇だが、繰り返して確認すると、現在の日本の民主主義は司法・行政・立法の三権分立で成り立っていると教科書には書かれている。つまり、国家の運営は互いに監視する三権の抑止力で正確に国民の意思が反映さてるって「理論」だ。
 大統領制を導入していない日本や日本が政治の仕組みの手本にしている英国では、議員内閣制の制度で立法府の最大政党が行政府のトップとなる。立法府の最大与党が内閣を組織して行政府を運営する。
 これは巧く出来た制度だと思う。立法府が制定した法律を実施するのは行政府であるから、立法府は行政府が法律の趣旨を正しく理解し施行しているか監視できる仕組みが必要だ。立法府が司法を利用して行政府の行動を規制するのも可能だが、直接的に自ら成立させた法律が正しく施行されているかを監視するために行政府のトップを立法府から「派遣」するのは合理的だ。
 ただ、これは「理論」である。
 先に述べたように三権分立で互いに抑止力、ま「にらみ合う構造」と言い換えるが、その機能が発揮された時に立法府の行政府に対する機能は意味を持つ。
 ところが、実際には立法の条文は行政府の官僚が書く。官僚の書いた条文の是非を検討するのが日本の「立法府」だ。自ら立法府が書いた法律なんてのは例外中の例外だ。民主党のガソリン税の道路特定法案廃止とかだが、結局法律には結びつかなかった。
 官僚(行政府)の書いた法律を採択するだけの立法府が何んで問題かと言うと「作文立法」になるからだ。法律の趣旨は作文されるが、法律の現場での実施方法、これを「制度設計」と表現するが、これは官僚のやりたい放題になる。
 「こまけぇことはいいんだよ」と言ったのはテレビドラマの中の「打ち込め青春」の森田健作氏だが、まさに今の立法府は「こまけぇことはいいんだよ」と言っているのが実態だ。ある意味「丸投げ」である。がしかし、法律は実施されて「なんぼ」なので、実施(行政府)形態の監視は立法府(国会)の大きな責務だ。だが、放棄され、主権者である国民(つまり自分に票を入れた有権者)を無視している。
 平和な日本で国会議員は次の選挙で再度当選するのが「政治活動」で、お上(政党)の決めた政策に従っていれば次回も政党の推薦を受けて当選して「議員先生」になることが出来る。その道を選ぶ腐った代議員制度を作ったのは立法府の国会議員の無作為なのだ。

戦前は軍部の暴走を政治家が放置
 立法府が行政府と「睨み合う構造」では無くて「もたれ合う構造」になってしまうと、国民主権が阻害される。実は戦前の日本は軍部を立法府が「睨み合う構造」を放棄したために、一方的に戦争の時代へと突入していく。2.26、5.15は軍部のクーデターは失敗したが、、立法府への武力行使を現実の物として見せつけ、立法府のシビリアンコントロールを無能にしてしまった。で、マスコミは軍部の片を持った提灯記事で国民をあおっった。
 どこか今の日本の政治構造と似ていないだろうか。武力行使のようなテロリズムは発揮されないが、軍部を官僚に置き換えれば同じような構造になっている。マスコミも政治ににじりより、官僚の作文を政治家から入手してスクープしようとする。しまいには、記者クラブで情報を独占してしまう。もちろん、独占する情報は大本営発表に近い官僚の思惑情報だ。
 こんな状況にあって憲法改正の是非など土俵に乗せることは出来ないだろう。
 そもそも民主主義が(マスコミの怠惰も含めて)機能していない現状で、憲法は無視された能書きでしか無い。しかも歴代の内閣は官僚の助言を得て拡大解釈を砂の上に城を築くように積み重ねてきた。さすがにもう保たないってことだろう。
 国際情勢の変化によって国民の生命、財産を守る方法は変化する。日本が連合国に取り上げられた軍隊は「軍隊を持たないのだから」って外交カードとして使えた。しかし、情勢は変化し「軍隊持たないのだから」は「じゃぁ、持てよ!」に変化し、有効な外交カードでは無くなっている。
 で、一番の問題は軍隊を「正式に」持つのならシビリアンコントロールの仕組みの確立が必須だ。しかし、ささいな国内法に関してでもシビリアンコントロールではなくてG-men(官僚)コントロールな状況を見ると「政治家がアホやから戦争になってしまった」が避けられる保障が無いだろう。
 政治家がG-menコントロールから脱却するのがまず最初の目標だろう。
 細かいG-menコントロールはいま話題の「ふるさと納税」にも散見される。

官僚の暴走を知らない国会議員
 情けないことに、我々が選んだ代議士のほとんどは国政に参加していない。「少数政党だから」とか、「政党の方針だから」とか言って個人活動は上部構造任せの処世術だ。「数を得て偉くなれば、なんとかできるのだけれど」って敗北主義で国会議員やっては国民への裏切りだろう。
 筆者は支持するものでは無いが、少数政党(個人)にも関わらず、政府へ質問状を書き続け(これは、制度的に認められている)、政府答弁を全文インタネで公開した鈴木宗雄氏の行動は全ての国会議員に問われてる「行政の監視としての立法府」の姿勢だ。
 だが、「うざい議員」と官僚は答弁書を書くたびに思っているだろう。行政府は立法府に監視されているんだって意識が、そもそも国会議員に無いのだから、官僚はやりたい放題になる。
 この日本の政治運営のおかしさをかねてから感じていたのだけれど「ふるさと納税」制度を調べたら、もやは日本国は官僚がやりたい放題なのだと恐ろしくなった。たぶん、安倍晋三総理大臣から「地方活性化の策を作れ(これ自体、行政府の仕事では無くて立法府の仕事なのだが)と言われて作ったのだろうが、基本的に納税の仕組みを詭弁で捻じ曲げている悪法(もとい、悪制度設計)を許してる立法府の「わがまま」がふるさと納税制度の行政事務制度だろう。
 いろいろ調べた結果だが、ふるさと納税制度は憲法違反だ。左巻きは憲法九条にいろいろ言うが、憲法に定義された「納税の義務」を勝手に官僚が制度を捻じ曲げて裁量権の範囲と言い張ったのがふるさと納税制度だろう。
 そもそも、地方税の取り合いで、国税への影響は軽微な制度設計になっている。官僚が自分たちの取り分は残して、地方税を無法地帯にした悪法が「ふるさと納税制度」だ。


税金は律令国家の原点である
 サラリーマンが多い日本の現状では給与が支給される時点で税金は天引きされるので内容の吟味の機会は少ない。ただ法律的に明記が義務付けられているので給与明細には「地方税」と「所得税」、他に社会保険料の控除(給与天引き)の額が明記されている。40歳以上の人は介護保険料も給与の支給時に天引きされている。
 「ゴトウサン」って用語がある。税金徴収は制度によるのだけれど、所得にかかわる税金は「ゴ」(5割)しか対照にならない自営業者、「トウ」(10割)が対象になるサラリーマン。「サン」(3割(実際は0だろう))が対象の政治家と税金は徴収方法に憲法の「国民の平等」に反する部分がある。
 所得税について言えば、収入から必要な支出を引いたものが「所得(利益)である。だから、サラリーマンは肉体労働で稼いだ給料は全額「所得」とみなされる。
 一方、自営業者は「売り上げー経費」が所得であると考えられるので、不透明な経費を計上すると所得の操作は可能になる。(地域の食堂の主が、スーパーで仕入れしているときにレジで領収書をもらているのだが、製品としてのカツどんは、その店舗の原材料では無いのだが(つまり、家族の日常の食事)、立派に先の「経費」として認められる。
 立法府が政治家の無責任で存在理由を失い、法律は法の精神を離れて官僚に有利な「制度設計」され明文化された制度になってしまった。
 多くの立法された条文を読むと「詳しくは省令による」となっているのだが、政治家は立法の最終段階に責任を持たないのか。
 やばい運用は沢山あるのだが、我々の日常生活では目にする機会が無いものも多い。
 そもそも、所得税(地方税、道府県税、所得税)の納税額が少ない低所得層は「ふるさと納税」で景品を得ることすら出来ない。そんな現実を見ると「ふるさと納税」制度は「格差拡大制度」だと言わざるを得ない。パソナの会長やってる竹中平蔵氏が考えそうな仕組みだ。(彼は政府委員会では慶應義塾大学教授の肩書きで出てくるが、実質パソナの会長職である。業界団体の利益を背負っているのだ)
 自営業者で「ふるさと納税」を利用してる人が周囲にいたら紹介してもらいたい。決して税理士はそのような会計をしないはずだから、税理士を変えることをお勧めする。



2015/05/12 Mint