何時、まともなエネルギー議論が始まるのか
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原子炉は止まっていない
何をもって「原発が止まる」と言うのか。文系人間の発想にマスコミも同調して「今現在、原発が止まっていても電気不足は起きてないじゃないか。だから、原発は無くても良い」との発想をする。
全然間違いだ。
まず、原発は発電を停止してるのは事実だ。しかし原子炉は動いている。定格出力では動いていないが冷温停止で管理されている。福島第一原発の1〜3号機は冷温停止 状態で管理されている。ここに役人の用語用法があって「冷温停止 状態」ってのは原子力工学には無い造語である。冷温停止とは原子炉内の冷却水が100℃以下になっている状態を指す。この状態だと水蒸気が発生しないので、原子炉の圧力が変化することもなく、安全に管理できるので冷温停止と呼ぶ。2011年12月に野田佳彦首相が福島第一原発の安全性が確保されたと「冷温停止状態」を宣言した。福島第一原発だけは冷温停止 状態にあり、他の原発は冷温停止である。
車のエンジンを切ってガレージにしまっておく状態では無く、車はガレージの中でアイドリングしているのが今の冷温停止だ。原子炉は止まっていない。発電していないだけだ。福島第一原発を襲った津波が(筆者は津波が事故の主原因とは考えていないが)今の「止まっている原発」を襲ったら、同じ事が起きる。全電源喪失には現在の冷温停止している原発も耐えられないで暴走が始まる。もっとも、そのような事態が起きる確率は地震の確率より更に低いと思うが。
ただ、テロリストにとっては使用済み核燃料プールも含めて原発が非常に魅力的な破壊兵器なのは「原発停止(発電停止)」の有無に関係ない話だ。
今の日本の原発の状況はガレージの中でアイドリングしてる車のようなものだと認識を広めるのがマスコミの役目だが「今、原発は止まっている」は、国民をミスリードする、「ためにするレトリック」でしか無いことにマスコミは責任を感じるべきだろう。
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エネルギー問題は国策である
誤解を恐れずにあえて言うが外交と国防は国の専権事項である。同じくエネルギー問題も国の専権事項である。地方の意向は尊重されてしかるべきだが、国策に従わなくては国家を危うくする。「ええぃ!民間人は黙ってろい!」みたいな事を言っているのでは無い。国策に対して地方は譲歩を前提に検討を進めるべきだってことだ。強権的に何でも従えとは言っていない、姿勢の問題を言っている。
そもそも、先の大東亜戦争の反省に立てば、国家存続にはエネルギー源の入手が必要であり、そのエネルギー源を南方に求めたのが戦争の発端(と言うか、必然)だったのではないのか。その歴史観を日本人は共有してるだろうか。
このようにエネルギー源を巡る外交は国の存続に関わることになる。日本の電気エネルギーを外国からの化石燃料に依存するって政策決定は何処でも方針として表明されていない。電力各社が苦し紛れに古くなって耐用年数ギリギリの火力発電所を化石燃料を輸入して稼働させ電力を供給しているが、その是非は政治の場で論議されていない。唯一、エネルギーのベストミックス(正確には電力のベストミックスなんだが)を決めようと役所が作文の用意を始めている程度だ。
日本の戦後復興の文字通り大きなエネルギー源だったのが石炭だ。この石炭を利用して傾斜経済を導入して日本を復興させようとしたのが白洲次郎だ。つまり、この時、石炭を利用するってのは国策だった。そして、やがて組合問題に手を焼いた自民党は石炭から石油へのエネルギー源の傾斜を行い炭坑労組を潰し、中曽根康弘総理の時代に国鉄を民営化して長年の宿敵の温床(過激労働組合+社会党)を葬り去ったのだ。
国策は現状打破では無くて10年〜20年先を見て立案すべきものだが、省エネが進んで20年後の電力需要は大きくないなんて言っている。まず、自動車が全部EVになったらどんだけ電力が必要になるんだ? 今後、快適性追求の為に電力を消費する新たな機器は発売されないのか? 未来をどう読んでいるのか皆目解らない議論が踊っている。
そもそも、国策って国のデザインを作る能力が立法府にも行政府にも無いのだろう。
技術は欠陥を補って発展する
原発が危険か危険で無いかをYesかNoかで答えろって単純な問に直面することがあるのだが、これは危険の度合いを無視した文系的な質問で答えようが無い。強いて言えば、包丁やカッターナイフも含めて道具は全て危険であると答えるようにしている。
原発反対派の多くは「原発止めろ」(その矛盾は既述)と言うが、止まった原発の後始末はどのように行うかの計画がまるで無い。そのまま、投げ出しておけとでも言うのだろうか。
実は原発が作れなくなって久しい日本やアメリカでは既に原子力技術者、特に研究と教育を担っている世代が退職してしまって新たな原発技術者の育成が滞っている。しかし、廃炉の技術はまだ確立されていない。確立のためには新たな技術開発が必要な場面もある。そもそも10万年も貯蔵管理するのは不可能なのだから核種変換の技術開発を行わなくては廃炉は非現実的な話になる。
それを開発する研究者や技術者が不足している現状を解決しなくてはならない。その体制が出来てこそ実質的な「原発廃止」が出来る。今の「脱原発」論者は後先考えず出来もしないことを駄々をこねているだけに見える。今の技術では「原発は止められない」のだから。
福島第一原発の事故原因は諸説有って、事故原因が特定出来ないので対策も行えない。であれば、「世界で一番厳しい安全基準」(そんなものが有れば、日本に原発は作れない)なるものをひねり出して、それに合格すれば稼働(再稼働)しても良いと役人が決めているが、これも完全に文系の発想だ。そもそも、福島第一の1号機で言えば、誰もIC(イソコン、アイソレーション・コンデンサー)動かしたことが無いので事故当時、動いているのか動いていないのか誰も判断できなかった。また、その前の刈羽崎地震で原発建屋の水素を抜くブローアップパネルが地震の震動で外れたので取れないように強固にした(福島第一原発の2号機のブローアップパネルは地震で外れたので2号機は水素爆発しなかったが、1,3(4?)は建屋に水素が貯まって爆発した)とか、およそ何のためにその装置があるかを理解していない能力不足(人災)も原因の一つだろう。
これらに関して先例の教訓を生かすみたいな安全基準が立案されていないのだから驚く。何よりも「事故に学ぶ」姿勢が政府や国会に無い。これでは的確な再発防止策が策定できないのは自明だろう。津波が5mだ10mだで議論する前にやることは沢山ある。
人類の進歩と調和
最近は「20世紀少年」が出版され映画化されたので1970年の大阪万博に再度関心が戻っているようだ。このキャッチである「人類の進歩と調和」に一番異を唱えたのが太陽の塔を製作した岡本太郎氏(死者には敬称を付けないのだが、彼には付けるこだわりが私には有る)だ。彼は「人類は進歩しても調和しない」と言い切っている。確かに、昨今の中高校生のスマホとlineの使い方を見ていると進歩しても調和してないなぁと思う。
ま、情報教育そのものがお粗末で、せめてマクルーハンの「メディア論」くらい読んでから教育に携わってもらいたいものだ。
その人類の進歩と調和だが原子力について言えば1945年に初めて原爆を爆発させてからまだ70年。人類がどうにか核のエネルギーを取り出して軍事以外で利用できてからはさらに15年ほどかかる。薪から石炭、石油と進んできた人類のエネルギー源に原子力が加わったのだ。ただ、どうも、このウラン利用の原子力平和利用は、どこかにプルトニウム(原爆の材料)生産の裏口があって失敗だったかもしれない。
「アトム・フォー・ピース」のかけ声がプルトニウム増産ってアメリカの国策だったのが尾を引いて新型原子炉の研究は進まなかった。唯一、アメリカが高速増殖炉の研究をやめるときに「話が違う」と怒鳴り込んだ日本の官僚にカータ元大統領が「日本はトリウム原発やれば良いじゃないか。アメリカの資料は提供する」と言われたのだが「トリウム原発」が何物か解らない官僚は帰国後この提案を揉み潰してしまった。
しかし、道を間違った「アトム・フォー・ピース」はアメリカ追従の日本のエネルギー政策を転換するチャンスだろう。世界がプルトニウムで溢れるような事態は先進国だけが原発を持っている時代なら良かったかもしれないが、これからは、より安全で副産物(副産毒)が少ない原発開発を行う必要がある。現に世界はその方向で動いており、インドや中国は主導権争いで鎬を削っている。
汲み取り式の便所から、水洗便所に、そして最近はウォシュレットが当たり前。その人類の進歩をまた汲み取り式便所に戻すような愚行を行っているのが脱原発の暴論だ。
国は石油から原子力への国策を今一度正力松太郎に欺された当時まで遡って再構築すべきだろう。まさに本来のリストラ(Restructuring(リストラクチャリング)再構築)を行うのは今だ。