日本は「戦争」の出来る国なのか?
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イメージ先行は慎むべき
戦争法案なのか平和法案なのか、言葉先行でイメージを広めようとして「日本を戦争が出来る国にする」とかのスローガンを目や耳にするが、イメージ先行で議論を思考停止にしてしまう。言葉によるレッテル貼りやイメージ押し売りの洗脳が横行していないだろうか。
そもそも「戦争」とは何だろうか。実は21世紀に入って20世紀型の戦争は既に過去のものになったのではないだろうか。国家と国家が互いに宣戦布告をして、一般的には首都陥落まで戦う戦争は起こりえなくなっている。国連が上手く機能しているとは言わないが、互いの国が戦争を行うことの利害を事前に把握しやすくなったのは事実だろう。つまり、国際社会の目を意識する社会、国際社会との利害関係が明確になった社会が21世紀であり、20世紀のように戦争を始めて見たら予想外の敵国が表れたなんてのは無いのだ。(大東亜戦争の時にモンゴルが1945年8月10日に日本に宣戦布告したのはあまり知られていないが国際法上明文化されている)。
その意味では日本国憲法の9条2項に「国の交戦権は、これを認めない」と書かれているが、これが20世紀型の「戦争」を放棄していると解釈できないだろうか。つまり、国と国の交戦を戦争と定義し、これを「認めない」。つまり、この形の「戦争」をあり得ないとの条文だ。つまり、日本国憲法では20世紀型の国と国の武力行使を「戦争」と定義しているのだ。ま、時代が時代だったから、それが「戦争」だったのだろう。
その後に起きた戦争、例えば朝鮮戦争は代理戦争に近く、ベトナム戦争は戦場はベトコンと呼ばれるゲリラと正規軍(アメリカ、南ベトナム含めて)の戦いだった。
フォークランド紛争はどうだろうか。これは侵略に対する奪還戦争だ。自衛権の行使された武力紛争だろう。
イラクのクエート侵攻はどうだろうか。これも侵略に対する自衛戦争と言えるだろう。
21世紀型の「戦争」は自衛権の行使が多く、しかも、多くの「戦争」で自衛側が勝利している。また、最近のiSILのように、国家を背景にした軍隊では無い武装勢力との戦いが増えている。これが21世紀の「戦争」の形態だから、旧来の大東亜戦争の「戦争を語り継ごう」的戦争は既に過去のものになってしまって、そこから「戦争」に至らない方策を学び取るのは不可能になった。それが「戦後」70年と言う月日の移り変わりなのだ。
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戦争を経済から考える
先の章で「戦争」とは何かを考察したが、以後は「武力行使」との単一的な意味で使う。だから「正しい戦争」とか「誤った戦争」って言葉は意味を持たない。しいて言えば勝利した側が正しかったのだろう。都市伝説だが英語のHistroy(歴史)はHis Story(彼の物語)から来たもので彼とは勝者であり「あいつが、ああ、言ってるぜ」程度が戦争のヒストリーである。
戦争を学ぶには体験談が主体の戦記物は多く出版されているが、戦争に至った背景を記録している書籍は少ない。自衛隊員が防衛大学で学習する戦争は「桶狭間の戦い」あたりが事例集なのも頷ける。その中で「坂の上の雲」は時代背景を含めて当時の日清、日露戦争を描いている。特に学ばなければならないのは明石元二郎の後方での諜報活動と高橋是清の戦時国債の販売だろう。
戦争の継続には膨大な戦費を必要とする。なんせ、鉄砲や大砲の弾をバケツの水をまき散らすように戦場にまき散らす必要があるからだ。そのため、明石元二郎はロシアの後方で数々の革命家に資金援助し第一次ロシア革命を後方支援した。その金額は当時の金で100万円、今の貨幣価値に換算すると400億円と言われている。もっとも、諸説あって明石元二郎の工作はことごとく失敗したとの説もあるが、仕掛けたのは事実だろう。
当時の日銀総裁であった高橋是清は戦費調達のためにヨーロッパを回るが、大国ロシアと日本の戦いである。日本が負けるのに国債を買う訳が無い。日本は日本が有利な戦場に外国人従軍記者や軍人を招待し記事を書かせ、本国への報告をさせて日本有利の情報戦を行い、高橋是清を側面から支援した。
結果、日本に国家予算を超える資金提供を行ったのがクーン・ローブ社で、この会社が1977年にリーマン・ブラザーズと合併し、リーマンブラザーズ2008年9月15日に破綻するkことになる。日本の日露戦争での勝利を支えたのがリーマン・ブラザーズだった。
さて、歴史を離れて現在に話を戻そう。膨大な赤字国債を発行して財政的余裕が無い日本が戦争を仕掛けるにしても戦費はどのように捻出するのか。スーパーインフレになってもなんせ原材料は諸外国から輸入せねばならず、まして、兵器の国家備蓄は行われずでは、現行戦力の拡充もおぼつかない。そんな国家財政にも関わらず戦争するのはアホのやること。ま、「政治家がアホやから戦争になった」ってのには国民は目を光らせておく必要があるが「日本は戦争の出来る国になる」ってのは総合的に判断したら「そんなアホな!」と言える。1発撃ったら補給が続かない兵力では仕掛けることは到底無理である。
各国も自衛戦争に備えている
「個別的自衛権を集団的自衛権まで拡大するのはまかりならん」と言っている輩も居るが、個別的自衛権と集団的自衛権では集団的自衛権のほうがリスキーだって発想は間違っている。ドイツ信奉論者が多いが、そのドイツは第二次大戦後は逆に「集団的自衛権は発動可能、但し、個別的自衛権を発動してはいけない」と法律で規定されていた。何故なら、1国の判断で戦争を行うことはヒトラー時代の再現になりかねないので「個別的自衛権」を放棄していたのだ(今は、ドイツでも両方可能)。
また、集団的自衛権のほうが安上がりである。戦争の戦力は敵側を上回れば勝利に近づく。集団的に連係すれば、個々の兵力負担は分割される。個別的自衛権で対処するには日本一国で相手を上回る戦力を持つ必要があるが、これは費用的に高く付く。その兵力規模は、「やってみなくては結果は解らない」あたりまで拡大が必要になるだろう。ま、何処を仮想敵国にするかによるが。
加えて、21世紀の戦争が「国境無きテロリストとの戦争」に移りつつある。テロリストとの戦いには勝利は無い。かつての「戦争」には首都陥落って決着方法があったが、国境もなければ首都もないテロリストとの戦いには明確な終焉は無い。
唯一あるとすれば組織のトップを捉え組織壊滅がある。もっとも、組織が新陳代謝して第2、第3のトップが生まれる公算が高い。
では、どうするのが良いのか、これは国内でのテロリストの活動殲滅になる。外国までテロリストを追いかけて殲滅することは不可能だ。そもそも、その国が他国の軍隊を受け入れるか不明である。結局、警察予備隊的な活動が優先する。それを実活動のメインにしながら横目で旧来の「戦争」を睨んでおきながら、集団的自衛権の行使を画策するのが最良の選択肢だろう。自衛のための武力行使を研ぎ澄ますのが自衛隊に課せられた任務となる。
山本五十六は「100年兵を養うは、これ平和のためである」と語った。日本が戦争の出来る国であれば平和なのである。
山本五十六の言葉
「唐突に山本五十六の言葉が出てきてもなぁ」って意見があったので、補足を。
先の大東亜戦争(日本国政府の正式な戦争名称、右寄り気取りで使っているのでは無い)で真珠湾攻撃に向かう機動部隊の長官に向かって山本五十六は「外交努力は継続中なので、中止命令が出たら速やかに反転すること」と言った。これに対して当時の機動部隊司令長官の南雲忠一中将以下参謀達は「一度、勢いの付いた兵を止めることは出来ない(実際はもっと下品な言葉で冗談めかして言ったのだが)」と反論する。
この時、山本五十六は「てめえら!揃って辞表を書け、100年兵を養うは、これ平和のためである」と述べたと伝えられている。日米開戦に反対していた山本五十六らしい逸話だ。
ちなみに日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破った連合艦隊の参謀であった秋山真之は「百年兵を養うは、一日これを用いんがためである」と述べたと伝わっている。「百年兵を養うは、一日の用にあり」という『水滸伝』にある故事から拡大されているものだ。
ちなみに初稿では「1000年」となっていたが正しくは「100年」である。韓国の朴大統領の「1000年の恨み」が何処か頭の隅にあった。ちなみに「1000年の恨み」では日本は韓国に元寇の役(1297年)で対馬住民を虐殺(ほぼ全滅)され、九州北部方面でめった打ちに有っている。主体は元国の軍隊では無く、高麗軍である。ま、朴大統領はどのツラ下げて「1000年の恨み」と言ったのか。
(5/27 加筆)