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「プロ市民」って用語があった
死語に近くなったが、数十年前には、左掛かった思想の持ち主である当人達は市民運動の専門家、プロフェッショナルとして「プロ市民」の用語を使って悦に入っていたふしがある。市民運動中の市民運動が我々がやってる行動だって自負もあっただろう。しかし、「安保法案改正」を「戦争法案」と読んで物事の本質をレッテルで貼り隠して、反対運動をお粉ル現在のSEALDsや山口二郎教授などはまだ自分たちの運動こそが正当な市民の行う「プロ市民」の行動だと信じているようだ。 この用語が一定の流通を見たのは、彼らの思惑と違って「プロ市民=プロレタリアート市民」と揶揄する側が使っていたことにも起因する。 オリンポスの時代から市民(シチズン)は国家防衛に責任を果たしてきた。都市国家が外敵からの侵略に遭遇すれば自ら武器を持って戦ってきた。このような市民(シチズン)の定義から見ると彼らの言うプロ市民は「労働者階級の利益確保の行動を行う集団」で、そこには「国家」の文字はなく、プロレタリアート市民(本来、定義されないジャンルだが)と呼んでいたのだ。 何故か、自称「プロ市民」は、そのような意味も知らずに「プロ市民」と故障されることを無上の喜びとしていた。そのために、右左双方で使われたので「プロ市民」は流通することになった。 菅直人元総理大臣の言う「市民運動」も、およそ市民からは遠く「国家は国民に悪さをするので、それを防ぐのが市民運動だ」と位置づけられる。そんな人が何故総理大臣になったのか日本の21世紀の七不思議なのだが、彼なりにユートピアがあったのだろう。国民不在のユートピアが。 |