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北海道の鉄道とは何かを原点に
時代の流れで良く言われるのが鉄道と自動車の歴史的発展過程の経緯だ。イギリスの産業革命で始まった「蒸気機関」が輸送手段として蒸気機関車を生み鉄路を敷設して交通網を整備することになった。その100年後にガソリンを利用した内燃機関を利用した自動車が普及し始める。アメリカのT型フォードは鉄道が敷設されていない地域の馬車にかわる移動手段として交通体系に一代革命をもたらした。 本来、鉄道は「大量、高速、遠距離」搬送を可能にしたが、実はこの3要素には競合他社も工業技術の発展とともに名乗りを上げてきた。トラックである。 道路が整備されてなくても、当時のトラックは目的地に荷物を運ぶ機能を発揮しだした。現在の中国の物流を考えると理解できると思う。 日本では資源を生産地から消費地へ運ぶ手段としての鉄路の時代は主たる工業エネルギ元としての石炭輸送であった。明治の時代に幌加内の石炭をエネルギー需要の高い関東方面に運ぶ手段が北海道の鉄道整備の目的だった。 海路が前提だったが、河川を利用した海路を構築したくても石狩川は冬期間凍結する。そこで陸路輸送が必要になる。一番近い不凍港は室蘭か小樽であった。当時の北海道開拓使でケプロンは室蘭港説を退けて小樽港を指定した。何故なら、距離が最短で鉄路構築に費やす費用が少なかったからだ。裏に榎本武揚の政治力があったのかどうかは解らないが、現在の「赤れんが」二階の展示、大通り公園の7丁目の北海道100年記念の像を見ると、ま、政治的なんだったんでしょう。 当時は今の千歳線は構想はあったが、苫小牧は発展途上で計画の俎上に上げられることは無かった。 実は北海道の鉄路は海上輸送を可能にする港を求めて小樽市に開港されたのだ。だから、上野で蒸気機関車が走った10年後には小樽市に鉄路が伸びるとともに本州では青森市まで一気に鉄路が伸びることになる。 歴史的に見ると本来、鉄道とは「物流」の手段だったのだ。何故かと言えば、先に書いた「大量、高速、遠距離輸送」は物資に対するキーワードで人間を運ぶ機能は付随的であり、ま、物資を運ぶ「ついでに乗せてやる」ってことだ。 だから、昭和の時代には「貨客便」なんてのがあって、客車の後ろに石炭を積んだダガー車が連結されていた。あくまで本機能は「物資の輸送」だったのだ。 |