三権分離の仕組み
アメリカのトランプ大統領が初めて一般教書を議会で演説したってニュースが流れているが、そもそも、直接選挙で選ばれた大統領は行政府のトップであり、立法府の組織である議会で演説する機会は一般教書あたりしか無い。
日本のように総理大臣がほぼ毎回予算委員会(立法府の会議)に呼ばれることは無い。日本は立法府と行政府の境目が曖昧な議員内閣制度で、予算委員会で語られるのは党利党略(立法府の内輪話)なのだが行政府のトップである総理大臣が臨席を求められる。本来、国会(立法府)の事は国会で完結すべきだが、悪しき慣例から三権分離がねじ曲がり、国会での立法府の議論に行政府のトップが臨席しなければならなくなっている。
このような組織が担う責任があいまいなまま日本の民主主義は、ま、言葉は適切では無いが「選挙原理主義」とでも言うか選挙は全ての有権者に「無条件降伏状態」を求めているのが現状になってしまった。
ここで述べている大相撲協会の理事候補選挙は決して特異なのでは無く、日本で「選挙」で選ばれる人々、当選した人々に許容される「代議員としての権利」が歯止めが効かない拡大解釈を生じている。それが、昨今の「魔の2回制議員」にも表れている。誰の何を代表したのかの意識が選ばれた側に薄いのだ。ま「無い」と言っても良いだろう。
相撲協会の理事候補選挙も予め一門の中で票の調整を行って「政策論争」なんかは皆無で投票を行う。しかも限られた101票を持つ親方だけで。
それが親方集の「民意」かと言えば、そもそも親方衆には理事会なんか制度設計上の無用の長物なんで、どうでも良い話になる。
しかし、大事なのは力士は相撲協会との契約した従業員で、部屋はその力士の育成を業務委託されているって制度だ。当然、契約により「業務委託費」が各部屋に支給される。その配分は理事会に任されている。つまり、各親方は組織温存のための決定機関に投票するって金が全ての預託なのが理事選挙の実態なのだ。
評議員会は理事長の下部組織
相撲協会は理事を「選挙」で選んで後に理事長を「選挙」で選ぶ。その結果の理事長が評議員会の委員を任命する。任命された評議員は理事会の承認が必要なのだが、実際問題として「選挙」で選ばれた理事長の指名に反対する構造は有りえない。
最低の総理大臣と言われた菅直人元総理大臣が「政権は期間限定の独裁である」と言ったが、この相撲協会でも同様な制度設計になっている。
閉じられた世界で数の論理で選ばれる制度を「選挙」と呼ぶには問題があると思う。もちろん、代議員選出の投票権は関係者に限られるのは理解しているが、その団体が町内会と違うのは公益法人って国民が行政に預託した権限の支配下にあることだ。町内会には行政と対等な存在で行政における特典的なものは無い(正確には、薄いと言う方が妥当だろうが)。一方、相撲協会が公益法人であることにより興行収入が税制上の特例扱いを受けて、本来、国家が得られる税金を免除されている。国民の集合体である国家の租税(律令制度)で特別扱いを得られているのだ。
その組織(文科省が統括する特別法人)が、国民に納得出来る説明責任を負うのは当然の事だろう。にも拘わらず隠匿体質で情報が国民に開示されていない。税制で特別な地位を得られるのは広い意味で「国民の合意」を得る必要があるのだが、その努力と言うか姿勢が見られない。「相撲界は特殊なんだ」って言い訳をしたいのなら、公益法人は返上すべきだろう。
このあたりの制度設計が甘い、ある意味で「行政指導」に従った制度設計が矛盾を露呈している。
でも「それでいいのだぁ!」と開き直るなら、本来の大相撲に戻るために「公益法人」を返上したら良いだろう。
問題点は明確だと思う。
公的な「公益法人」であることが良いのか、「神事、興行、家督」の本質を継続するのか、この二者選択を論議するのが大相撲の理事会の責務なのだが「今のままで」ってのが今回の結果だろう。
相撲界がどのような組織になるのか、それは自身が決める事だが、今の状況では「特殊な閉じた社会」に向かっていると思えてならない。
「選挙」とか「投票」とかの用語を使えば民主的なのでは無い。
何が「母体」であるかが選挙結果の正当性を担保する。これは統計学のサンプル数と母体数で求められる「誤差数」と同じ矛盾を包含している。