戦後の統治制度は制度疲労
日本国ってのは世界的に珍しい国家だと思う。昭和20年8月15日の終戦の勅諭(終戦の日では無い)を受けて明治時代からの富国強兵政策をあっさりと放棄し、経済(これも後述するが、何か実態は定かでは無い)至上主義に傾倒し、結局の所、政治の責務は経済となった。1960年代の学生運動に端を発した「米帝主義」は実は幻想で、マケッティングとしてのアメリカをターゲットにした日本の「経済」が「政策」と合致していた時代が長く続いた。
ま、その政策(経済政策)は成功したののだが、かじ取りをしたのは貿易省と作ろうとして結局は経産省になったが白洲次郎氏である。ま、詳細は「
このあたり」を参考にしてもらいたい」
吉田茂の時代から優秀な(その定義は確定してないが)を抱える立法府(正確には内閣なので行政府)が立法府である国会を誘導して政策を立案してきた。ま、消費税の税率なんかは立法府で決められる「行政手段」と言ってよいだろう。介護保険制度とかも同じで、行政府の立案を内閣が国会に提出して立法化する。つまり行政府の意向が立案される立法府なのが実態だ。
このようなプロセスが日本は「世界に珍しい」と言わせるのだ。
行政府が作文した法律を立法府がある意味で「数の論理」で法制化してしまう。ある意味でと言ったのは反対勢力は議論を避けて反対運動に勢力をそそぐ行動に出るからだ。負け戦を前提にデモンストレーションするのが野党の「定番」になっているのは次回の選挙で当選するために支持母体を擁護しておく必要性を感じて居るからだろう。国政の方向の議論をしても新しい支持勢力を得られないって負け犬が現状の支持母体を大切にする構造だ。これは40年も前の東大安田講堂事件で前日に総退却した革マルの論理と一貫してる。組織温存が最大の生き残り策としているのだ。
それを否定しない。何故ならば、戦略の一環として正しいからだ。
ただし、私は革マルに痛い目にあった学生時代の経験から支持はしない(笑い)。
今の統治機構は組織疲労
どうも、この理論を話すと賛同を得られない体験が多いのだけれど、今の日本の統治制度は官僚任せで限界に達していると思う。
もう10年以上も前かなぁ、珍しく検討委員会なんかのメンバーに選定されて参加したのだけれど、何時もの悪い癖で「黙って、承認」って役割を逸脱して「ここが、おかしいんじゃないか」と言ったのが「ネットワークを利用して地域格差は減少してる」って文言は間違っているって発言。
その意見に対して事務方の反論は「それって、東京では書いて欲しんですよね」って言われ憤懣やるかたなかったのだけれど、結論は次年度の委員の落選(笑い)。
「モウモウ牛状態です(笑い)」
立法府が次回の選挙での当選だけを目的に行動し、行政府はあ立法府(与党)の皮を被ったキツネ。そんな仕組みが経験則で積み上げられた今の日本の統治制度は再構築する必要があるだろう。
そもそも憲法改正論議の焦点は自衛隊では無い、日本の統治制度である議院内閣制が制度疲労している現状が実は現行の憲法によるからなのだ。地方自治はそれなりに問題を起こしているが「大統領制」に近い制度設計になっている。一方、中央政府は「議院内閣制」だ。
その制度の違いによる結果の成否は玉石混合だが、立法府が行政府と利益共同体、つまりゲゼルシャフトでは正しい国家運営は行えだろう。本来、三権分立は互いに「睨み合う」ゲマインシャフトでなければならないのだ。
何が組織のゲマインシャフトなのかを考えると、省益や次回当選の選挙対策なんての行動は出てこないはずだ。
そもそも、北朝鮮の出方次第って外交の瀬戸際でゲマインシャフトを無視した立法府の運営に対して国民(かどうか、知らんけど)が「安倍辞めろ!」って、叫んでデモしているのは、これもまた「日本は特別な国」なんだろう。
そもそも「愛国心」が欠如しても国民の代表として立法府の国会議員に当選するって国家は世界に日本だけじゃないのか。
それを自覚してか、旧社会党にも北朝鮮問題は置いといて愛国心のかけらはあった。今の野盗(あ、誤変換だ「野党」)である希望(の無い)党とか立憲(憲法を知らない立憲主義)とか民主党(組合以外は民意で無い)とかが、この国を運営できるとは思えない。
GHQが決めた統治機構を見直す政治勢力が起きないのはその方が既得権益には「安泰」だからだろう。
GHQが決めた統治制度を見直す気概が起きない現在の統治制度はある意味で1960年代の「米帝」支配なのだが、それで良いって選択は国民はしていないと思うがなぁ。