政党とは何だ!

政党の発端は明治維新前夜
 高校で日本史で学んだ経験を記憶している人には「政党」ってのは板垣退助が組織した「愛国公党」が発祥だ。しかし、さらに遡ると「土佐勤王党」とかの明治維新の時代に国家のあるべき姿を語った集団も用語は違うが活動内容は「政党」と呼んでも良いと思う。
 その政治提言をする集団である政党が互いの主張を戦わせ、争った時代が明治維新前後であった。数々の謎の暗殺事件が起きている、池田屋事件や坂本龍馬が暗殺された近江屋事件が起きた。この時代の「政党」は国家論を同じくする人々の集団で、当時は「政治」って言葉すら無かったのだろう。
 明治維新によって日本はイギリスの国家統治制度を参考に政府による律令制度の導入を進めた。
 国家が成り立つ仕組みは多々あるが、大きく3つのファクターが必要で、それは更に1000年も前に確立された国家を定義する「日本書紀」にある、国家建立の歴史である。加えて領土、領民、統治制度なのだが、これを経済で言い換えると「律令制度」である。
 国民(ま、領民と言っても良いが)から税金(その表現は年貢だったり、寺銭だったり多様だが)を集めて再配布(ここが権力が権力者たる所以なのだ)する仕組みは明治維新より遥か前の鎌倉幕府の時代から存在した。
 これが「政治」って言葉で語られたのは大正デモクラシーの時代まで時間を要した。律令制度が統治機構として政治になり、国家の運営は国民の合意によるって考え方が認知されてきた時代に「政党」が産声をあげた。
 ただ、当初の「政党」は政治活動機関では無くて情報広報機関であった。街角で演説をする今で言う「街頭演説」が主力であった(これが演歌の語源であることは今回は触れない)。
 これは行動の妨害も容易であり集まる人々の数も限られるので実効はかなり弱いものであった。で、そこで着目したのが当時始まった新聞である。多くの人に配られて目にする機会が多い新聞は街頭で演説するよりも何倍も多くの人に主張を届けられる。
 つまり、1985年にNTTが民営化されてのち、情報の流通がマスコミからネットに変化する前段で街頭演説からマスコミへの変換ってのが今から100年ほど前にあった。それが新聞である。
 今でこそ全国紙でありテレビ局を支配する新聞社であるが、その発端は「政党」の機関紙、つまり今存在する「赤旗」と同じなのが100年前の機能だった。
 不思議な事に、始まりの原動力だった政党(活動)が無くなっても新聞社は生き残り、今に至っている。人間の本質である「好奇心の塊」に合致して勢力拡大を始めた政党の機関紙が、今、民主主義に挑戦する存在になっているのは歴史の不思議な流れだ。

マスコミは政党支持率調査
 今回の衆議院選挙は「二大政党制」って、その是非はともかく小沢一郎氏が画策した政権交代の仕組みのまま行われる。小選挙区制度は本当に国民の国政への意見を反映しているのかとの議論は多いが、結果的に一人しか選挙区で国会議員は選出されない制度だ。
 その「唯一の選挙区を代表する代議員」を選ぶスケール(尺度)は何なのだろうか? 所属する政党って考え方は国会の衆議院であっても参議院であっても問題が有る。何故なら、国民が政治を託す代議員制度の選挙なのだから「政党」が顔を出す余地はないだろう。立候補者は自らの活動方針を訴えるべきで、推薦された政党の「お品書き」を御経のようにとなえている場合では無いのだ。
日本の政治制度は「議員内閣制度」で行政のトップである総理大臣を立法府が決める制度になっている。
 立法府、行政府、司法と三権分立ではあるが、立法府で選ばれた内閣総理大臣が行政府の長になるって仕組になっている。
 立法府で選ばれるいわゆる「首班指名選挙」での勝者が行政府の長になる。これを総理大臣と呼ぶ。イギリスの政治制度を手本にした明治時代からの統治制度だ。
 そもそも、総理大臣が国のトップであるって考え方は若干合理性に欠ける。何故なら、総理大臣は行政府のトップではあるが、行政府ってのは決められた法律の元に国家を運営する機関だ。どのように運営するかの自由度は法の配下にある。
 本来、立法府は法律を作るのだから既存の仕組みに捕らわれない、新たな国家運営を法制化できるのが立法府だ。つまり、諸外国から見たら「総理大臣」であることよりも立法府から首班指名された人って意味での総理大臣が国を代表する存在になる。その意味でアメリカのトランプ大統領が安倍晋三総理を大統領と同等に考えているのは単純だが国際的価値観に合致する。
 諸外国では首相と大統領の2党首制度が多い。何故ならば、立法府が選ぶ行政府のトップと国民が選ぶ国家の代表者との2巨頭制度のバランスを重視している。
 日本は、何故か立法府と行政府が一本化されてる統治制度を72年も続けてきた。その弊害が「政党」って政治集団の跋扈である。

選挙での当選を目的に政党を標榜
 小選挙区制度になって政党の存在意義は薄れている。各選挙区で立候補者が訴える政策が重要になる。しかし、小選挙区制度は逆な方向に進んだ。政党の台頭である。
 選挙に金がかかるので「政党助成金」って制度で広い意味で政党活動を国民の税金で支援する法律が作られた。その結果、小沢一郎氏の目指していた「自由に使える金庫」を得たのだが、その税金が使用される場面はやりたい放題だ。端的に言って「憲法にも無い政党って存在を政局的に強化したのが政党助成金」と言っても良いだろう。政党が暗に要に構成員を金で縛る仕組みを「国民不在」のまま立法したのが「政党助成金制度」だ。が、当時の国会議員は誰も反対しない。何故なら、自分たちの財布に金が流れ込んでくる制度に反対するのは「代議員としての常識」を疑られるからだろう。唯一、日本共産党は政党助成金の受け取りを拒否しているが、台所事情が違うからで、家計簿の「収入の部」ってのは別手配できてるだけの話しだ。
 結局「政党」って制度にお墨付きを与えた「政党助成金制度」が行き着く先は「政党政治」になる。そもそも政党の構成員は個々に選挙区から代議士として選ばれた立法府の政治家なのだが、有権者よりも政党に縛られる存在になっている。端的なのが「党議拘束」だろう。政党が決めた方針に従って国会で賛否を表明しろって行為だ。
 有権者は政党を選んだのだろうか? 実はマスコミが政党の情報を流す(マスだから、個別選挙区の報道には手が出ない)ものだから、小選挙区制度にも拘わらず政党選択投票になってしまう。
 本来、立候補者は己を代議士にするべく選挙活動を行うべきなのだが、政党の支援で当選を目指す。結局、政党ってのは選挙運動が主で副として政策て存在なのだ。
 であれば政党イメージで一気に国政へってのが希望の党だろうが、基本的に政党政治は戦前の「大政翼賛会」を招いたって史実から学ぶと、政党主導の衆議院選挙は民意を反映しない広義の大政翼賛会に陥る。
 今の立候補者を見ると「無所属」のみがまっとうな候補者に見える。

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2017/10/16
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