旅の話(2)
北見市って高校まで生活していた小樽市より小さい町で住民になって(実は住民票は移してなかったんだが)、さて、何を始めようかと思っていた時期に最初に知ったのは全共闘の勉強会だった。
当時はスチューデントパワーってのが世界の流行で、若者は世界を変えていく義務があるってのがキャンパスの主流だった。もっとも、大半の学生はノンポリだったけど。私は可能なら学生が新しい日本を描けると信じていた。
で、北見市の特徴なのか、赤ちょうちんに行ったりすると国労(まだ、国鉄は民営化されてなかった)の組合員が集団で居たりして、酔った勢いなのか「大学生かぁ、頼むでぇ」(何が?)とか言われて酒をおごってもらったりした。
当時、写真部に在籍していたので視写体のテーマを探していたので小樽では無理だった(小樽築港の操車場は出入り禁止だった)北見機関庫の列車撮影を選んだ。
後年、不肖:宮嶋氏の本を読むと、昔の写真好きは「天文写真か列車写真だった」と書かれているが、高校生の頃は「天文写真派」だったので、同じ流れに乗っていたのかもしれない。
最初は学割を利用して列車の撮影活動だった。
思い出に残るのは雪の常紋トンネルを撮りたくて氷点下20℃にもなる冬の常紋信号所(列車はスイッチバックで一時停車する)で車掌さんに頼んで降ろしてもらった。
その車掌さんが「帰りに拾ように車掌に言っておくから」と連絡して、帰りの足も確保できた。数年後には鉄cyan用に乗降できるようになったのだが、それの数年前の厳冬期の時の話。
旅って目的地では無くて人との出会いなんだ感じ始めていた。
弟子屈の旅館でアルバイトをする機会があって、鉄路以外にも沢山の撮影ポイントがあるのを知って、鉄路からヒッチハイクでの撮影に旅が切り替わる。
ヒッチハイクはまさに人との出会いで、同乗中に「こんな写真を狙ってるんですよねぇ」なんて会話を通して様々な情報交換ができた。特に社会人と会話する機会が少ない(国労は除く(笑い))大学生には貴重な存在だった。
それが「旅」との出会いだったのかもしれない。
これは時効だから言って置くけど、当時の小樽の実家の同じ町内会に家がある開発局の部長の車にヒッチハイクで拾われて阿寒湖の第一展望台まで乗せてもらったんだけど(どうも、公用車だったみたい)「息子が学生運動に熱心なんだけど、あなたは同じ大学生としてどう思っています」とか聞かれた。
当時の学生運動は多種多様なセクトがあって、なんて答えたものかに窮したのですが「今の暴力的な学生運動には問題がありますが、親御さんとしてお子さんを信じるってって自信があるかどうかかなぁ。生意気なことを言っているのは重々承知ですけど、たぶん息子さんも「親父は信じてくれてる」って思って戦っているのだと思います」と答えた。
その後、摩周展望台から美幌の展望台まで同乗させてもらって昼飯をごちそうになって「ここからヒッチハイク?北見まで行くから乗せてってあげる」って話を断って次のヒッチハイクをしました。その時の写真を焼いて(当時はフィイルムから引き延ばし器を使って焼き付けるのだけど)お礼にお送りしたら手紙が来て「大学生って千差万別だなぁとお会いして感じました。息子も就職先が決まって親として大人に成れたなと一安心しました」って内容でした。
その経験から「旅」に大切なのは出会いなのかなぁと感じました。
旅の話(3)
旅と旅行の違いに気が付いたのは社会人になって結婚して「新婚旅行」ってのに行った頃かなぁ(遅いって!)
社会人になって「出張」ってのは何十回もあったけど、これは旅でも無ければ旅行でも無い。
試しに「出張」をGoogle翻訳で調べたら「business trip」だそうで、どっか行ってラリッテル感じだなぁ(苦笑)。
学生時代は貧乏なんで移動は学割かヒッチハイク。夏休みになると「周遊券」(今の青春18きップみたいな奴)で当時は「知床旅情」のブーム(加藤登紀子版なので森繁久彌版に比べて二次ブームと言われていた)があり本州方面から貧乏な大学生が沢山北海道に来ていた。彼らは大きなリュックサック(デイバッグなんてのは当時は無かった)を背負って北海道内を国鉄を利用して旅していた。
そんな時に弟子屈の旅館でアルバイト経験をした。発端は賄いの女性陣が待遇改善を要求してストライキを行ったので人出が足りなくて大学の寮に総務部長が自らマイクロバスを運転して駆け込んできた。取り合えず8名集めて夕方までに帰るって緊急な話で、たまたま帰省のタイミングを逃していた私にもチャンスがあった。
この旅館のアルバイト経験はかなり貴重で、その後の「旅」に影響するのだが、それが大学1年目の時だったのもラッキーだった。
旅館はユースホステルも併設していたのだが、我々「助っ人部隊」とは一線を画していた。我々は朝の仕事(宿泊室の布団上げと掃除)と夜の仕事(配膳の運搬)の間は自由時間で先輩たちは風呂に入ったり昼寝したりしていた。
私は旅館から勝手に「電気工学科なんだら壊れたジュークボックス直してくれ」みたいな特命を受けてそれどころでは無かったのだけど。
そう言えば、同行した先輩学生のほとんどは土木工学科だったなぁ(苦笑)。
ジュークボックスの故障は金銭受領箱が満杯で接触不良を起こしていただけなので、簡単に治ったのだけれど、そのテスト演奏にトムジョーンズ(今では誰も知らないか)のドックオブザベイを掛けていたら一人の女の子が寄ってきて「直ったんだぁ、私もこの曲好きなんだ」と(彼女は「私」を「わたくし」と言うクセがあった)声を掛けられた。
その時は「変な子」程度で終わったのだけれど。
その旅館に今では珍しく無いけど外国人が車で乗り付けて来て「部屋空いてねっがぁ(意訳)」みたいにフロントで揉めて「大学生なんだから英語くらいわかるっしょ」って呼び出されて丁寧に「団体客で一杯なんだけど、ユースなら都合できる」と話して「そっちで頼むわぁ(意訳)」でOKもらった。
「ふーん、大学行くとそんな事も出来るんだぁ」と横から声を掛けてきたのが昼間の「わたくし」女の彼女だった。
この話は長くなるので
続くにします。