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「北風倶楽部」の経緯(1)
パソコン通信の「北風倶楽部」は北海道庁の「新長期計画(我々は「身長計」とよんでいたが)」の一環だった。
実は「世界食の祭典1988」が立ち上がった頃に「計画の企画募集」が始まった。 前にも書いたけど「人事的には「世界食の祭典1988」と主要メンバーは同一」だった。 当時の北海道庁には「東大卒の4人衆」が居て、具体的な個人名は書かないが横道孝弘北海道知事が「その一人」だった。 横道孝弘知事には「斬新なことやって国政に戻ろう」と考えていた節が有り「世界食の祭典1988」はその方針を実現した 「政策方針の実績」だと考えたのだろう。 その「東大卒の4人衆」が企画したのは「各部から新長期計画の企画を最低3件以上あげろ」だった。 その内容は「公開」だったので「ヒデエ企画だナァ」てのも数多く有った。 私が不満を持ったのは「北海道212市町村ネットワーク構想」だった。企画したのは「総務部だったかなぁ(この辺の記憶はアイマイ)」。 北海道の212市町村(当時、現在は市町村合併で179市町村)にサーバーを設置し、ネットワークを構築して「業務の効率化を計る」って企画だった。 当時、NECのパソコン通信のPC-VANに加入して「このメディアは凄いなぁ」と体験していたけど、電話回線を使う「アクセス・ポイント」は全道規模では無くて道南から道央までだった。 それを「北海道212市町村ネットワーク構想」かぁ! 当時、アメリカでの「パソコン通信と市民ネットワークと既存メディア」に興味があって書籍の購入に加えて「ネットワークってどんな機能なのか」とNiftyのインターネット接続(自費で月額1万円かかった)を利用して日本からアメリカの状況を「民間人が触れられる」世界を体験した。 この「北海道212市町村ネットワーク構想」の企画は間違っている。何故なら「そのネットワークで「何をするのか」が書かれていない」回線業者とサーバの保守業者の「仕込み」なんだろうが、サーバーが1台で212市町村(当時)に端末を配備するのが「合理的」な方法だ」から。 |
「北風倶楽部」の経緯(2)
安価なインフラ整備が北海道庁の仕事で、212市町村(当時)のサーバーの保守にどんだけ税金使うんだと思っていた。
実は、当社の事業の一環として北海道庁の科研費(現場が情報収集に活用する予算)で帯広で開催された「農業博覧会」にNECのN5200ってオフィス端末にN88BASICでソフトウェアを組んで、当時は有料だったランドサットの北海道の映像を入手して(5万円くらいだったかなl)秋の「作付けと収穫の画像変異」を画像処理して表示し比較(1985年ですよ)するのをデモンストレーションしていた。 「トラクターを見る」との会場では異質な展示で質問攻めだった。 その展示会の当日に「林務部で活躍した会社なんだなぁ」と声を掛けられた。 「林務部の仕事」とは数年前にNECの「ハンディターミナルのN6919」を林業の「土場」で使って伐採した木材を「長さ、直径(最大)、樹種(樹木の種類によって先細りとか先太りがある」 を入力して「現場で材積(材木の取引は「体積」で行われる)を計算して入札の「目安」を表示するシステムで私が作った。 同様に求められて「立木(りゅうぼく)調査システム(森林の林小班単位に5年毎に成長した「材積」を計算)」も構築した。 これは「山林の敷地管理の「林小班」単位に樹木の植生を測定して「先の「材積」の予想」をする仕組みなのだが、ここだけの話だが、プログラムの構造は「ほとんど同じ(笑い)」。 それが「朝日新聞の記事」になったのだが北海道庁では「林務部やるなぁ」と評判になっていたらしい。 ちなみに「システム開発してくれるか? 林務部の業者に「認定品」として業界に広めたい」と依頼されたのは、当時の「林務部課長の 堀達也氏」だった。 後の「北海道知事」なのだが、当時は「林務部課長」だった。 実はこの「帯広農業博覧会」での展示が「北風倶楽部」のきっかけだったのは3年後に「振り返えると」気が付く。 「林務部で活躍した会社なんだなぁ」って声をかけられたのが当時の農政部のh主任だったのだから。 |
「北風倶楽部」の経緯(3)
帯広の「農業博覧会」で農務部の「H」さん初対面だった。誰かの情報も無かった。
実は「帯広農業博覧会」への展示経費は「H」さんが所轄する「北海道庁の科研費」で「おもしろい会社の研究発表の支援」って予算だったのは後日に知った。実は社内の別な部署で「農業の生産性向上の方策」って仕事を農政部の「科研費」から受けたのだが「北大の農業部の出身者が居るから、そこの部でやれ」となって「報告書の書き方も知らない部署の」仕事は「農政部」では評価は低かった。 「あ、そっちもやってますけど、こんな研究もやってます」と名刺交換した。 「ふーん、あんな報告書の会社が何故かは林務部で活躍したのは「君かぁ」と言われた。 それが1985年9月だったかなぁ。 その後、直接「H」さんから電話があって「提案書を作れないか?」って話だった。 「身長計の企画で「農務部」って「ネタ」無いだよな。なんか調査業務の企画書を書けるかなぁ」と言われた。 2日で書き上げた「提案書」は「北海道212市町村ネットワーク構想」に毛が生えたようなものだった。なんせ、プログラムを作るのが「仕事」って当時の会社の方針に沿わないとダメって社内の「暗黙の了解」があったから。 で、打合せ会議で「提案書は「没」」になったんだが、 上司が打合せ会議中の席に「客先のシステムのトラブル」の電話が入り退席し対応することになった。 そのタイミングで「H」さんから「本音で提案してくれないかなぁ。こんな「提案」は電電公社(当時は民営化前だった)でも書ける。北海道の大地に足を踏ん張る「企画」無いのかぁ」と言われた。 上司が会議で「不在」になったので「H」氏に「個人的な見解を提案書にして良いですか?」と聞いたら「何か「腹案」あるの?」と言われて「明日の午前中に提案書をお持ちします」と答えた。 当時、自宅にはMD/DOSのデスクトップPCがあったので、これを使って「一太郎(懐かしい)」に「企画書」を打ち込んだ。 私は「理系」なんだが、大学時代に「私小説」を3本(このときは「万年筆だが」)で書いていて「文章を作る習慣」は身についていた。ただ、パソコンはキーボードを叩く音がするので、奥様に「もう寝たらぁ、パチパチの音で寝られない」とクレームが出た。 北海道庁が決めた「提案書」の提出期限には1週間もなかった。 で、「徹夜で企画書を書いた」後、本来の社内の外部書類の提出「稟議規定」も無視した。 あの時は30代だったかなぁ。この仕事で会社を変えてやる「プログラミングで食っていく会社に社員の未来は無い、時代じゃ無い」だろうとの「強烈な思い」を持っていた。 「ダメなら、それは「運命」だろう」と割り切っていた。 つまり「ダメなら新しいネットワーク交流を仕事にする会社を自分が立ち上げて」って構想が浮上したのだった。 結局当時の北海道庁には「設立3年以上の会社と契約」って条項があったので断念したけど。 実は先に書いた「北海道庁4人の東大卒」が作った会社(団体)には、この規定が適応されずに「予算」が流れていた事例が多々あった。 構造は同じで実態が無いこれらの会社を経由して「ピンハネ」して「外注」する構造が「身長計」にかなり含まれていた。 |
「北風倶楽部」の経緯(4)
そんな中で「世界食の祭典1988」の二の舞はならないように「H」さんと二人だけで「企画書」を煮詰めていった。書き換えた「パソコン通信ネットワーク構想」は当時の「農政部」の「北海道新長期計画」の一環として計上されることになる。
契約直前に「契約内容(「調査事業内容詳細」と調査業務では記述)」に「北海道庁へのパソコンの3年間無償提供」があった。 これが「我が社の営業品目」に合致したので「契約締結(正確には北海道庁は「支出負担行為書(内部資料)」に30個くらい「合意のハンコ」が押されて「細かい話は現場任せ」が「調査業務の基本」)なのだが「最後の詰め」段階になった。 そのために、大分の「コアラ」の年次大会があることを知り「はるばる北海道から大分に飛んだ」。 会場で企画書を提出した道庁の「H」さんと出会った。 「敵情視察かぁ?」と言われたけど「ま、大分で出来ることは、北海道では「それ以上のものが出来る」って事前調査かな」と答えておいた。 「ところで帰りの航空機は千歳直行じゃないですよね」 「ああ、羽田経由だけど」 「実は企画書にも書いたけど「全国ネットでの運営が必須でNECのPC-VANを使いたい」なんだけど、PC-VANは「帯広にアクセス・ポイント」が無いので「作ってくれ」の交渉のアポを東京のNEC本社(当時はNEC本社の「PC-VAN事業部」だった)で取ってるのだけど、同席願えませんか?」と話した。 「公務員が民間企業に「請託」するのは、法律に違反する恐れがあるんだよなぁ」 と言われて「企画した会社が「どんな努力をしているか」たまたま東京に来ていたので、オブザーバーとして同席した」と言えば「請託」にはなりませんよね。 「ま、出張の変更の「稟議書」の作文は難しいけど「企画提案書の実現性の調査」とでもしておくかぁ」 で、会場で様々な「活動状況」の「事例紹介」を聞いて、その夜に「飯を食うかぁ」ってことで第一日の「コアラの敵情視察」の情報交換を行った。 「パソコン通信って、悪い意味の「コミューン」なのかなぁ。そこに参加して「自己主張の実現を目指すメディア」じゃないの?」 同行した「シンクタンク」の調査員が切り出した。 「その面があるのはイナメナイなぁ。議論の「方針」を明確にしたら「舵取り出来る」のかもしれないけど、世界では実例は無いな」 私が言うと 「おいおい、「横路孝弘北海道知事は辞めろ」なんてパソコン通信に北海道庁が調査費を出したら、俺は「死刑」だぞ」 「明日、平松大分県知事と「コアラと私」って話を聞きたくて「アポ」取ってますから「同席」します?」 「え、そんなアポを取ったのかぁ。出張の「復命書」書くの大変だわぁ。役人の「出張の書類の仕組み」勉強しろよ!」と言われた。 後に「噂で聞いた」のだが「H」さんの「復命書を見た」部長が「出た所勝負の出張かぁ!」と言っていたとか。「復命書」に「事実」を書かないと「懲戒」になるんだなぁ。 そのために全部を正直に書いたらしい。 「平松知事の話を聞いた」って部分は「どんな作文」だったのかなぁ。 |
「北風倶楽部」の経緯(5)
で、翌日のアポで大分県庁で平松大分県知事に会った。
コアラの年次大会中でコアラ関連の取材が多くて時間は15分だった。 私は名刺交換(渡されたのは「コアラ」会員の名刺だった)後に「コアラで「個人」と「公人」は使い分けてらしゃいますか?」と聞いた。 平松大分知事の返答は面白かった。 「日本には「本音」と「たて前」の文化が根付いていてパソコン通信はこの文化の違いが解りますね。私は「公人」としては「コアラには」書きません。私の発言は議会議事録で記録されてます。ただ「結論に至ったプロセス」はコアラに書いてます」 つまり「本音で語る」のがパソコン通信「コアラ」で、その認識が会員で共有されるのが大切との話だった。 また「議論をリードする手法はどのように行っているのですか?」と聞いたのだけれど「それは行っていないです。パソコン通信で議論が行えるのでしょうか? たぶん「コアラ」は県民の交流の場」ですから「議論はしない」ってのが習慣になっていますね」とのことだった。 「北海道が農村地域と都市部のネット交流を目指してパソコン通信を使うのは「挑戦」ですね。その結果に着目しています」とエールを送ってくれた。 |
「北風倶楽部」の経緯(6)
翌日、早い大分発の航空機で羽田空港に飛んだ。NECのPC-VAN事業部(当時)と「実名でのCUG(クローズド・ユーザズ・グループ)を開設する契約交渉」を目的にしていた。この段階で北海道庁からは「予算執行」の契約の締結の「内示」は出ていた。
「H」さんに「開設出来そうですね。ネットの名称は「北風倶楽部」にしたいのですが」と話した。 「North Wingかぁ!「北風」ってイメージ悪くないかなぁ。北海道倶楽部あたりが「案全杯」じゃないか」と言われた。 「北海道新幹線の青函トンネル(先進導坑)が1983年に開通した。時の中曽根康弘総理大臣が「発破」のボタンを押して壁が崩れた。その時、先進導坑に流れた風は「北風か南風」か知っています?」 「そんなことあったなぁ。どっちなの?」 「本州から北海道に向かって流れた南風だったそうです。青函トンネルでも出来なかった「北風」を本州に流しましょうよ」 「あ、そこまでコダワル必要は無いと思うけど」 てな話をしながら高くてマズイ「東京の昼飯」を食べてNECの本社ビルを訪問する。 受付で「アポしているのですが、PC-VANにCUGを開設したいので打ち合わせに来ました」と言うと、道庁の「H」さんが「私はアポ取るときにメンバーじゃないのですが、オブザーバとして同席させてもらいます」と受付で「名刺」を出した。 相手は「PC-VAN事業部の課長」の予定だったのだが「あたふたが始まって「本部長」が会議に出てきた」 「先にお送りした企画書にあるように「北海道の農業者と都市部の消費者との情報交換の場をPC-VANのCUGで実現しようと考えています」 「あ、そうなんですか」本部長は詳細を知らされてないようで「聞き役」だった。 「そこで、北海道の農業地域と言えば「タマネギ」に代表される北見市。「ジャガイモやビート」の帯広市。だが、NECのPC-VANには「帯広市にアクセス・ポイント」が無い。これを作っていただきたい」 私の主張はこれだった。どうせ作るなら「早めに作れ」って感覚だった。 本部長は事情を知らないけど北海道庁の「H」氏の顔ばかり見ている。 ここらで当時の「パソコン通信」の「アクセス・ポイント」の話を説明する必要があるかなぁ。当時は自宅の「電話回線」に「自分が購入した「モデム」を接続してNECのモデムの場合が「CRN:00-0000-000」と近くの電話回線(これがアクセス・ポイント)を呼び出して接続すると本体のサーバーへの通信を確立していた。通信手段は「音響カップラー」による300bpsだった。やがて1200のモデムが使えるようになり、最後は2400BPSまで速度が高くなった。 当時(1987年)は300BPSも「全国区」では無かった。 本部長は「北海道の環境の整備を早めますので「帯広」にもアクセスポイントを作ります」と返答した。 実はこれは膨大な設備投資が必要な案件だった。当時「日勝峠を越える光ファイバー回線は開発局の5本で全て開発局で使われており、NTTは日勝峠を越える回線を持っていなかった」 本部長の「安易な約束」で現場は苦戦することになる。 「この恨み晴らさずかぁ!」って、この課長とは「険悪な関係」が以後連綿と続く。 |
「北風倶楽部」の経緯(7)
北海道庁の「H」さんは一言も話すことは無かったけれど「NECは北海道庁に、どう対応するんだ」って圧力になったようだ。
当時のパソコン通信の仕組みはNTTの電話回線(受信専用で債券購入は半額だが35,000円かかる)を地元(アクセス・ポイント)に設置して、そこに接続すると信号をセンターに接続する。 当時のPC-VANのセンターは千葉県にあり、これは後のインターネットのIIJの「日本国内の国外光ファイバーの上陸実務拠点」になる。 結局、帯広市にアクセス・ポイントの設置が出来ず「約束違反」になったのだが「苦肉の策」で当時、アクセス・ポイントが有った苫小牧市に「通話料無料の電話(今の「0120」みたいなやつ)を設置するから使ってくれとのことだった。またCUG(クローズド・ユーザ・グループ)の開設費50,000円は帯広にアクセス・ポイントが出来るまで延長するとのこと。 なんとか開設に漕ぎつけたけど、運営方針は概要は決まっていたが各会話をするのに「掲示板設置」が必要になる。 当初の基本方針は「東京のシンクタンクの農業系の報告書の著者の勧誘」だった。彼らは農業の現場情報に長けているし、逆に現場情報の収集も欲していると考えたから。 知り合いから紹介を受けた20名程の加入を誘致した。 「どこどこでこんな取り組みやってるよ」なんて情報交換が始まる。 |
「北風倶楽部」の経緯(8)
初年度(1987年)は「立ち上げ」が主眼で「交流」は次年度と計画していたのだが「マスコミ」に取り上げられて「参加申し込み」に翻弄されることになった。
実名でのネット参加を前提に運営していたので「参加申込書」の郵送が必要だったのだけれど(昔だなぁ)、ネットの電子メールで「申込書」は添付ファイルで送った。「プリンターが無いので」って人にはFAX(当時の十勝ではFAXが普及していた(猫の寝床だったが))で送った。 当時の「マスコミ」には「申し込み先の電子メールアドレス」なんか「書く文化」が無いので「会社の電話が鳴る」(ま、これも時代だなぁ)。 そもそもPC-VANには個人の申し込みでIDが発行されるので必要が無かったのかもしれないが、初年度は「書き込み件数により「参加費」を支給するって制度だったので「口座情報」が必要だったので「書類」が必要だった(今の「個人情報保護法」では無理だけど)。 初年度の参加人数は100名程度だった。 「調査業務」としては成功の部類だったけど、3ケ年の調査の最終年度は200名近くになっていた。 参加メンバーも「多種多様」になって「運営」にも苦労が生じる場面が生じた。 北海道庁の「調査事業」の期間が3年だったので終了させようと準備していたら帯広市から「運営費を出すから続けて欲しい」と言われて「会費制(1年間3000円)で継続することにした。先に書いたように200名の会員の大半は「脱会(休眠)」で100名程度に減ったが1年間の続行を行った。 実は当時研究会に参加してインターネットのSINETのIDを取得していたのだが、札医大の学内から接続(当時はX端末だった)して利用していたがNiftyのIDがあれば「ゲートウェイ」して接続できた。高価(月額1万円程)だったが、その情報量(英語)には最新の新聞紙早かった。「これからは、こっちだな」と思っていた。当時からMesh.netのIDを取得していた。 結局「北風倶楽部」とは何だったのかと考えると「地の利、人の利、時の利」を得たのだと思う。今、同じことを行っても成功しないだろう。まさに1980年代の「ネット」の黎明時代の産物だったのだろう。 |
「北風倶楽部」の経緯(最終回)
開設当初は「北海道庁の支庁(当時)もモニタリング出来る端末を設置してくれ」をとされていたので経費掛けて「出張」して帯広支庁と網走支庁に端末を設置してPV-VANに接続する環境を整えた。
オートログインのIDもパスワードも当社から発行。電話回線は支庁が負担ってことだった。 1987年の「あの時代」を感じるのだが自治労北海道労働組合と北海道庁間には「通信装置の設置には「組合との合意が必要」って条項」があった。ま、北海道庁の「基幹システム」の端末が増えると「労働強化に繋がる」との発想なんだけど、パソコン通信のPCも対象かぁ! まったく「あきれる」のだが、当時の北海道庁では「課長席の電話機」以外は「他市町村(札幌以外)への通話は出来ない」なんて、規則が行われていた。 で、当時の農政部長だった「T氏」に自治労北海道労働組合が乗り込んで「組合との合意事項違反だろう!」と詰め寄った。ま、「パソコン通信」が「通信装置」に該当するのかは「見識の分かれるところ」だが「電話線が繋がっているから「通信端末」が彼らの「通信装置「論」」だった。 「T農政農政部長」から私に電話が入り「北海道庁の責任だから、もし押しかけたら「聞くだけ」の対応をお願いしたい。善処は北海道庁の責任だから、対応は全面的にこちらに任せてくれ」との話だった。 「元学生運動の闘士」な私としては「プライドのために戦う」って心情だったけど、「ご迷惑をかけないように対応します」と答えた。この後、外郭団体に天下りした「元T農政部長」からは「あの時は私の役人人生がかかっていたんです」と感謝され外郭団体から仕事をいただいたりした。 「そもそも、支庁に端末入れるって発想が、ネットワーキングが解って無いなぁ」と私が「H」さんに抗議すると「俺、PC-VANのIDは個人会員なんだなぁ。月額2000円を個人負担している。その意識が支庁にもあるかの試金石だったんだがな。実験てのは失敗に学ぶって側面も大切だよな」と言っていた。 北海道庁では2000年になっても「FAX受信室」なんてのが道庁の庁舎最上階に設置されて、ここにFAXを送ると該当部署に「庁内で配達する」仕組みだった。めんどくさいので「書類を持って」該当部署まで出向いたことが多かった。 ー終了ー |