雨を突いて..泊村、神恵内村
コース概要
地球温暖化のためなのか天気の変化が著しい。今年は週末の天気が不順だ。特に北海道ではサイクリング予定日の土曜日の天気が悪い。その原因が雨降りでは無くて自転車で走る事が困難な程の「強風」にある。去年も春先は強風に悩まされ、十勝平野で風のために自転車を降りて「押し」になった事がある。今年もそれに近い状態が続いている。
こんな気象状態では遠くに出かけて走行不能では困るので今シーズンの最初に、何故か残っていたコースの泊村、神恵内村訪問を行う事にする。
何故残ったのかの理由は沢山有る(笑い)。いちばん大きいのは泊村には北海道電力の原子力発電所が有ることかもしれない。僕は子孫にツケを残す原子力発電には反対なのだ。1990年頃には当時全盛のパソコン通信で原子力発電選択の愚考を説いて回った。ところが最近は電力会社自身が「廃炉」問題で「そんな金は経営に組み込まれてないから、国が負担して」みたいな事を言い出している。やっと解ったか、こいつら。と思ったのである。もう一つの理由はトンネルが多いコースなのだが、ライトの準備が出来ていない事がある。正直今までは夜間走行を考えてないのでトンネルは手に懐中電灯を持って抜けていた。交通量も少ないのと大きな国道が多かったのでトンネル内の照明で十分通過できた。しかし、こちらは古いトンネルも多く、しっかりしたライトを付けてから行こうと思っていたことも有る。
、ま、原子力発電所の横を通ってもいいかなと思い出かけることにした。
本当は積丹半島一周ってコースに組み込みたいのだが、既に北側の市町村は訪問済みなので、いわゆるピストンコースになる。岩内町から国道229号線を辿って泊村役場を通り神恵内村役場から折り返すことになる。
北海道の日本海側特有の細かなアップダウンが続くコースだ。役場まで行って、そうそうに戻ってくることにしよう。「渡島半島一周」てのは魅力的だが、別な企画にする事として、今回はパスすることにした。
輪行概要
前日は大気が不安定ってことで札幌でも落雷で小学校のボイラー室の蓋が飛び上がり天井を壊すと、かかなり激しい気象状況だったのだが、当日は札幌は晴天だった。気象情報は「局地的に雷警報」って状況だったが出かける事にする。
行きは札幌から国道5号線を走り朝里(あさり)から、キロロリゾートの有る赤川村に抜け、銀山から稲穂峠を越えて岩内町の道の駅で車をデポする。赤井川村から雨になる。ただ先が明るいのでたぶん岩内町は晴だろうと進む。結局、出発時は日が照る天気だったのだが...。このコースでは距離が多いが時間は少ない。ちなみに帰りは岩内町から稲穂峠を越えて国道5号線線に添ったフルーツ街道を抜けて小樽市から国道5号線に合流する。実はこちらのほうが時間が短かった。
ま、とりあえずデポ地点は岩内町の道の駅「たら丸館」の駐車場。
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岩内町、道の駅「たら丸館」
ここが出発地点。車をデポして自転車を組み立てる。正直言ってここが「道の駅」に指定された経緯を知っているので利用している自分に納得がいかない部分がある。何処の世界にも「内なる鈴木宗男」がはびこっているのだ。この駐車場で「さかな市場(たら丸市場)」をやっているらしい。さぞかし繁盛してるのかと思って見に行ったら閉店中。だったら、駐車場のスペースを空けろと言うほど車もこれまた駐まっていない。
そもそもここは旧駅前なのだが、国鉄が路線を廃止して駅が無くなった時点で町の重心は何処になるのか決めないまま、ズルズルとここが中心と位置づけられて来た。駅が無くなっても「駅前商店街」はえんえんと残っているのだ。で、結局町の中心機能を果たせず、単なる駐車場しか無くなったのだ。隣の共和町にマックスバリューとホーマックが出来る前に、道の駅を誘致して駐車場を作る敷地でこの両店舗を誘致できればずいぶん変わったのだと思う。ま、岩内町の話しは今回の範囲では無いのでこのへんにして。
ここから海岸線を北に向かうとフェリータミナルに出る。ここも名称は「フェリーターミナル」だがフェリー路線は廃止になっている。「大きな釣り堀」って名称を変更したら適語の状態だ。ここから国道229号線を共和町を通って泊村村に向かう。
今日の秘密兵器にライトもさることながら先日のフリーマーケットで100円で買ったバックミラーをフロントフォークに右下に取り付けた。これが結構便利だ。後ろから来る車が見える。この車の速度が推測できる。今までは後ろから車が来ると音で解る程度で追い越しされた時にトラックだったりトレーラーだったり解るのだが、このミラーを利用すると事前に見ることが出来るので安心である。ただ、ホークの下なので視野が狭く、こんなに便利なんだからハンドルに付けようかななんて思った。自転車はどちらかと言うとうつむいて前を見ている場合が多いがバックミラーが有ると「逆からみた風景」も楽しめる。これって結構新鮮だ。
泊原子力発電所を回避する「堀株トンネル」
堀株は「ほりかっぷ」と読む。北海道電力が泊村に原子力発電所を建設しようとした選択事由に核燃料輸送のための港建設がある。多くの原子力発電所が海に面しているのは核燃料の搬入排出に海上輸送が欠かせないからだ。加えて海水を利用した冷却水もまかなえる。そのため堀株一帯の海岸線を走っていた国道をトンネルでバイパスさせて、海岸線全体をが原子力発電で使えるようにしたい。そのために北海道電力は「堀株トンネル」を自前で掘った。このトンネルは北海道電力が作り、国に移管したトンネルなのだ。原子力発電所を見えないようにするための意味もあるのかもしれないが。
たしかにトンネルの入り口横にも出口横にも「立ち入り禁止」の柵があり、「巧い方法だなぁ」と思いながらトンネルを抜ける。もう一つ「巧い方法」が北電から移管されたトンネルの照明が基準以上の明るさなので国で照明を減らしたってこと。これも多くの電力を使うように北電が設計したって噂されてる。トンネルの中は暗くて後ろの点滅ライトと今年付けたライトを点ける。目が慣れてくるとやっとライトの灯が路面を照らしているのが解る。それほど暗いトンネルだ。北電はあまり儲からないかもしれない(笑い)。
このトンネルの上の丘に風力発電施設がある。北電の実験施設なのだが珍しい1枚羽根なんて風車もある。苫前で商社が風力発電事業を行っているが、これに比べて「遊び」の雰囲気はいなめない、ま、自然エネルギーも視野に入れてますよって「いいわけ」の雰囲気も感じるのだが。当日は風があるのに3機とも回っていなかった。
この先に小さな茶津トンネルを抜けて登り坂が始まる。小さなアップダウンの始まりである。サイクロメータを見ると30m程登ったあたりから平になり右側に泊村役場が見えてくる。
泊村役場の周辺はパラダイス?
役場の周りと言うか、背景の丘全体に公園が出来ている。役場の後ろの土地を整備したらしい。でもアップダウンが激しくて村民が利用出来るのかなぁ。
ここの村は財政力指数が100%を越える北海道で唯一の黒字市町村。つまり国からの地方交付税をもらっていないのだ。そしてザクザク余る収入をせっせと消費するのが役場の務め。てなわけで昔、周辺市町村を集めて情報化講習会の講師を務めた時に泊村から来た若い女性職員が乗ってきたのがソアラで、神恵内村の課長が軽自動車だったってことが有った。
その収入の大半が原子力発電である。ここには「固定資産税」が入る。加えて周辺市町村には北海道電力が北海道庁に納める燃料税の分配がある。原子力発電所の使用済燃料の搬出には反対派のデモが有ったりするが、この時に電力会社から入る入れ換えた新しい燃料に掛かる「燃料税」が周辺市町村に再配布されるのだ。これも泊村に入る。なんやかやで持て余す税収がこんな崖公園を作らせるのだろう。
ま、加えて役場から国道を挟んで向かいには「アイスアリーナ」。誰がスケート靴履いてアイスホッケーするんや。雪印だってホッケーは解散でポラリスなんて民営組織にして生き残りをはかってる時代なのに、外部からの誘致をはかる施設なのか。たぶん、めちゃくちゃ赤字なんだろうが、全体の黒字に隠れて誰にも施設を作った責任が及ばないのだろう。
泊村は特殊だと割り切りたい。ホームページも持たず、実態を広報もせず、ひたすら隠して財政ジャブジャブ溢れるって道を選んだのは住民の意志なのだから。
ついに降ってきたぞ
泊村の役場を出てから10分程走ったあたりで雨が降り始めた。弱い通り雨かと思っていると夕立のように強くなる。バス停でも見つけて雨宿りしようとしたが雨が急に強くなったので目についた民家のガレージに飛び込んだ。車を出して出かけたようで車を出した後にたまたま扉を閉じ忘れたって感じだった。とにかく雨宿りしなくてはと思いここに飛び込む。
今までサイクリングで雨に会ったのは数える程し無い。石狩当別への拠点確保の時にはアラレが降ってバス停に避難している間に一面雪景色になったことも有ったが。この雨も短時間に晴れるだろうと思いたいのだが空を見上げると黒い雲の動きは緩やかだ。
雨が晴れる前に持ち主が戻って来た。「あのぉ、ここで..」、「いいよいいよ、車を駐める場所はあるから」なんて親切な行為に甘えて雨が止むのを待つことにする。
時間にして30分程だろうか、晴れ目を利用して再度出発する。
考えてみると自転車で走っているってことは前からの風を受けているので汗も発散するが急に止まると汗が吹き出てくる。やっとそれが納まった頃に再出発なので身体がきつい。たまたま下り坂が多かったので助かったが結構「再起動」には辛いものがあった。
盃(さかずき)温泉街
兜トンネルを抜けて「秘境」と言える盃温泉に入る。ここって絶対「秘境」だと思う。だって誰も知らないじゃない(笑い)。
ここが積丹半島観光の起点にならないのが不思議でならない。つまり、秘境で居たいのかなと思う。旅館数は10軒程だと記憶しているが日本海に開けた温泉として「知る人しか知らない」ってことで良いのかとも思う。
ここには地名にもなっている海岸にある大きな岩の茂岩を結んだ観光橋がつながっている。温泉には入ったことが無いので解らないが、新たな観光施設として開発する余地があると思うが泊村にはその意識が有るのか無いのか良く解らない。「良く解らない」ってのは情報開示の遅れなのだと僕は指摘したい。別な項目で
北海道212市町村ホームページ拝見をしているのだけれど、ここ後志(しりべし)地方は市町村ホームページの過疎地。ここ泊村、神恵内村、そして共和町とホームページが無い。役場に発信する情報が無い訳は無く、情報を発信する術を知らないのだろう。ここ盃温泉はたしか観光協会のホームページが有ったと思うが。
来た甲斐があった、神恵内青少年旅行村
茂岩からは小さい狭いトンネルが2箇所有ったのだが今は新しい茂岩トンネルが完成している。トンネルの緩い登りを進むと海岸段丘の上に出る。あちこちに旧道の旧道の跡が見えるが、これは岩壁をくり抜いた道。橋を掛けるにも谷が深いので大きく谷に添って伸びている。ここを歩いて物資を運んだのだろう。海路が開けていたので陸路はほとんど使われなかったのかもしれない。このあたりはニシン漁が盛んな南限で「袋溜まり」と呼ばれる港と呼ぶには小規模な「船着き場」が随所にある。
大きく右に曲がりながら坂を下り左折して古宇川を越えてさらに左折すると神恵内村役場。ここを曲がらないで直進するとツールド北海道で何度も使われた当丸峠に向かう道だ。この当丸峠は万が一原発で事故が起こった時の避難路として整備され、冬期間も除雪されるようになった道。一回自転車で越えてみたいと思うのだけれど標高差800m、往復64kmには二の足を踏んでいる。
神恵内村役場の前でお決まりの記念撮影。考えてみると北海道には24の村が有るのだけれど、十勝の更別村と忠類村は隣接した村、同じくここ泊村と神恵内村も隣接した村、ともに「村同士隣接」の貴重な存在ではないだろうか。
港に出て昼食でもと思って役場の回りを捜していると「青少年旅行村」の看板が目につく。郷土資料館もこの丘の上にあるらしい。どうせなら高いところから海を見ながら食べようと坂を登り始める。が、あまりの急坂にあっさりと「押し」。ここは青雲坂と言うらしい。名画の看板が「青雲ギャラリー」とかで立っている。かなり色あせて来ているが。ドガとかモネの模写が飾られてる。登り切ったあたりが「旅行村」の入り口。
なんと眼下に広がる日本海。さっそく最近憶えたパノラマ撮影をしておく。
この青少年旅行村の中に郷土資料館が有る。中と言っても入り口の受付の隣なんだけど。もしかしたら入場料は只かなと思いながら受付に聞くと「入村が必要です」とつれない返事。ここまで来て500円をけちってはなんなので500円を払おうとすると「入村許可願い」を書かなければならない。なんと役所仕事なんだと思ったが土曜日に出勤している役所のあんちゃんも大変なので黙って「個人情報」を書いて500円を払う。「ちょっと電気入れて来ます」ってんで郷土資料館に走って行って電気を入れてくれる。あ、前に様似の郷土資料館や歌志内の郷土資料館で遭遇した「客が来れば電気入れる資料館」ってやつなんだ。
で、正直言って小学校の社会科で使う程度の資料館。500円は高いじゃないか。「金返せぇ」と受付のあんちゃんに怒鳴り込もうかと思った瞬間目についた汚いヘルメット...。
横に北海道新聞の記事の拡大コピーが一緒に展示されている。その内容は、『神恵内村の遺跡の中からこのような足軽の兜が出土している。多くは明治以降、研究者が持ち去って現在は役場に一つ残っているのみ。この兜の形状は平泉に残る義経の軍勢の兜と非常に似ていて、義経が北海道に渡って、その後モンゴルでジンギスハーンになったって伝説を裏付ける資料として貴重なものだ。と、語る古老も先週亡くなってしまった。この伝説は北海道ロマンとして謎のまま残された』みたいな、ちょっと茶化した内容の記事。
実は先ほどの盃温泉の手前が兜岬。ここから50km程南には雷電海岸があり寿都町には弁慶岬がある。義経が北海道に来たって伝説はアイヌの伝承としても残された、北海道の真ん中の平取町には義経神社がある。これは和人がこの地にたどり着いた時に地元のアイヌから「ここに和人の義経が来た」って聞き込みから神社を建立したもの。
さらに東の本別町には弁慶洞窟が有る。なじょして北海道には弁慶・義経伝説があるのか、それを歴史的に検証できるのがこの平泉でも発掘されてる兜ではないのか。
博物館で展示物の写真を撮るなんてのは「掟破り、ご法度獄門磔の刑」なのだがデジカメで写真を撮らせてもらった。とにかくここ神恵内村が和人によって開拓(侵食かな)されたのは「古宇(ふるう)場所」と呼ばれたアイヌとの交易所から始まる。そして頻繁に平泉地域との交易が有ったのだろうか。僕は無かったと思う。ある時落ち武者が大量に松前藩統治の現在の松前に流れ込んだが、始末に困った松前ではより奥に移動することを勧め、日本海海岸線を北上して寿都町の雷電岬にたどり着いたのではないだろうか。それが寿都町の弁慶岬から始まり、ここ神恵内村に至る。そもそお「雷電岬」ってのは「来年来る」ってアイヌの娘に言い残して義経が去ったってことに由来している。日本語としての「来年来る」が音として「雷電」になるのはアイヌの伝承が仲介すればこその事ではないだろうか。ここからアイヌの先導で白老、平取、本別を経て北上し、現在のサハリンを経て、真宮海峡を経て今の中国に渡り内陸のモンゴルに至った集団(それが義経かどうかは別にして)が居たのではないだろうか。その集団が各地で語った「義経」がアイヌの間で伝承され今の北海道義経伝説にたどり着くのではないだろうか。おっと、これはアラビアのローレンスのアジア版ではないか。北海道にはそんな歴史が有ったのかなぁ。一人興奮して兜の前に30分は居ただろうか。これをかぶっていた人に聞ければ良いのだが。
そもそも北海道で最初の鉄道が小樽市の手宮から札幌市まで伸びた時の最初の蒸気機関車の名前は「弁慶号」、その後追加された蒸気機関車の名前は「しずか号」。キムタクの奥さんは工藤静香、ドラエモンの、ノビタのあこがれは静かちゃん。国会の風雲児は亀井静香。まっとにかく、北海道に義経伝説が有るのは故有ってのことなんだって手がかりがこの兜なのではと思う。
受付のあんちゃんに「ちゃんと調査したら」と言っておいた。良くあるパターンだが地元の人間には外から見た感覚が無い。この兜は神恵内村の国宝級なのだって感覚が無いのが寂しい。この兜だけで500円の価値はあるのだ。って、人間が一人(私だが)は居るのだ。
戻りは興奮しながら追いかけてくる雨を引き離しながらノンストップで一気に岩内町まで駆け抜けた。「消化試合」みたいな2つの村だったが、神恵内村で貴重な資料に対面した。
しかし、この兜に象徴される情報を何故に公開出来ないのか。正直言っていわゆる「情報リテラシ」の問題である。情報化とは双方向なのだ。情報を発信する人に受信する機会が訪れる。有名な言葉に「マタイ効果」って表現がある。マタイの福音書12条13説にある「持つ者はより持つものが集まる。持たないものは持つ者ほど集めることが出来ない」って部分だ。情報は発信しないで収集だけなんて事は出来ないのだ。それが解るのが「情報リテラシ」だ。その意味で出かけて得られた情報に接し、ここに地域発展のヒントが有ると思う。がしかし、地域で最大の企業である役場がこのままではブレィクスルーするのは難しいだろう。
様似のあの「郷土資料館」とここの違いは何だろう。結局組長の力量なんじゃないのかな。ちなみに神恵内村の郷土資料館のパンフレットは昭和62年4月の村長 高山庸一氏のメッセージが掲載されている。昭和62年と言うと今から15年前だ。ここの施設は15年間パンフレットを使い続けたのだ。それって資料館では無くて化石館だろう。今も村長は高山氏なのかなぁ。マンネリだわな。だから村から先に進まないのだ。その意識も無いのだろう。つまり、「他との交流」が全然出来てないのだ。だから「村」として残り得たのだって逆説的な証明が可能だけれど、21世紀も義経伝説と供に生きるのか、これって村民も含めてあまりにも情報過疎である故のモンロー主義ではないのかな。函館市、帯広市、同じなんだ。内に結束する力が強すぎて外との連携を逸するってこと。でも若者は敏感で外に出て行ってしまう。ま、ここから先は
言いたい放題の範疇かな。
2002.05.25 (C)Mint 本日の走行 55.0km
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