北海道の砂金の歴史を踏まえて 中頓別町
コース概要
廃線の情報は結構インタネに有る。これを読むと結局鉄道てのは地域の資源輸送の
手段でしか無くて憲法に詠われている「国民の平等」とは全然関係無いものだったのだ。
まず国策ありきで進められた明治・大正の鉄道敷設がやがて政治家の手柄に発展し、そして太平洋戦争敗戦後のエネルギー政策と雇用政策で炭坑と国鉄が大きな役割を果たした。つまり、国鉄は資源を東京に輸送する手段として、地方政治家の手柄として敷設されてきたのだ。「鉄路」がいいかげんな政治家の集票戦略だった時代を過ぎて国民的課題になる前に国鉄の民営化でJRになり切られてしまった地帯を訪問する旅が続いている。
前回は「失われた美幸線」にかなりイライラしたのだが、考えてみると道路と鉄道は地方から「奪いかつ奪う」象徴で都会に出やすくなると人々は地方を離れていったのだろう。その意味で廃線により都会志向では無い新たな「主張」が出てきても良いのでは。そんな苛立ちをその後感じていた。
そのためには、オホーツク海を北上するのでは無く、とりあえず廃線になった「天北
線」を辿ってみようかと思った。実は「美幸線」はとんでも無い政治路線で未完成のまま廃線になるって宿命が有ったのだ。それは逆に政治家の口利きを許しているとこんな事になりますって遺跡として残したほうが良いと僕なんかは思うのだ。
美幸線がいかに政治的だったかって逸話だが、これは当時の北海道庁の職員から聞いた噂でしか無いが当時の「日本一の赤字線」(これは、路線内の駅で売れる切符販売額を路線維持経費で割るって統計的に矛盾した指標だったのだが)をアピールしていた美深町長の長谷部氏の行動を好ましく思わなかった官僚がいた。ま、地方を知らない「東京馬鹿官僚」なのだが。
この官僚が北海道に1路線くらい第三セクターで鉄道を残したらどうだろうかって提案してきた。北海道庁は候補として深川市と名寄市を結ぶ深名線(しんめいせん)、池田町と北見市を結ぶ池北線(ちほくせん)をあげた。「名寄ってあの美幸線の近くでしょう。池北線にしましょう」って一言で今の「ふるさと銀河線」が第三セクターで開始されたらしい。
で、この「ふるさと銀河線」も存続の瀬戸際なのだが、もし「深名線」が残っていたら「日本一の蕎麦産地」の幌加内には違った展開があっただろう。僕の好きな朱鞠内湖も観光開発が進んだだろう。全ては無能な官僚の「東京馬鹿」が祟りを撒き散らしたのだ。
てな話は 言いたい放題の話なので、これ以上書かないが(十分書いているって!)、とにかく、「札幌で見ていては解らんねぇ」ってことで出かける。
この路線を検証するために内陸のルートを中頓別に向かう。
|
|
輪行概要
基本的に札幌から300kmを超える地帯なのだ。出来れば一泊と思うのだけれどギリギリ日帰りに拘ってみたい。どうなんだろう、一般のサラリーマンが出来る「冒険」って日帰りに集約されるではないかと思う。道路網が整備されて「日帰り」でより遠くに行けることが国民の幸福なのだと思う。「田舎を捨てやすくなった」今の道路行政は何処かおかしいのだ。都会から人が来やすくなったって道路行政を踏まえ、地域の特色をアピールする。それが、本当の「特色有る地域の形成」ではないかと思う。その意味で、前回と同じルートを音威子府まで、ここから小頓別を目指しここの公園の駐車場に車をデポする。
道の駅ピンネシリ
既に中頓別町に入っているのだが、ここで自転車を組み立てていざ出発。実は天候が不安定でここでも霧雨が降っている。天気予報はあてにならないのだけれど、今年は北のオホーツク高気圧の勢力が強く、北もしくは東からの冷たい風は何回か経験している。今日も天気予報は「曇り、時々晴れ、所により雷雨」って競馬で全馬券買ったような予報しかしてない。出発しようとした時にここの公園に来た人に話し掛けられる「何処に行くの?」、「これから中頓別まで行こうと思うけど雨はどうですか」、「うーんパラパラだな。気を付けてね」って感じだった。
ま、「来てしまったものはしょうがない」。ここから最初は道の駅「ピンネシリ(敏音知)」を目指す。
前回の歌登への分岐点から大きく左に回り込みながら道は進む。非常に緩い上りなので全然苦にならない。正直道の駅までは何も無い。ひたすらペダルを踏む。道の駅「ピンネシリ」には公園とオートチャンプ場が併設されている。しかも公園のメインモニュメントは天北線駅跡地である。ここ「道の駅ピンネシリ」は天北線の駅跡地を利用した道の駅で、広く公園整備されている。また、旧駅の跡もホームと駅看板が整備されている。ここ天北線が廃線になったのは国鉄がJR北海道に民営化した後なのが看板の年表で解る。
公園の水飲み場で顔を洗う。さほど汗をかいていないのだが、つめたい水が気持ちよい。飲んでみるとこれがおいしい。さっそくペットボトルのジュースを全部飲んでここの水を詰める。本体のボトルの水は入れ替えない。万が一ペットボトルの水が悪くても本体の1リットルで補えるようにするためだ。
ここまでは曇り空に時々青空がのぞく天候だったのだがこれから先に雲と言うより低い霧に近い天候のようだ、遠くに見える山が霧に包まれてすそ野しか見えない。
中頓別「寿公園」
ついに雨の中の走行になった。雨と言うより霧雨に近いのだが濡れた路面からのタイヤが水を拾うので背中への跳ね上げがつらい。出来るだけ水が溜まった場所を避けながら進む。ウインドブレーカーを出すほどの雨の降りでは無いので多少濡れることを覚悟でそのまま走る。時々酪農家の家が見えるが回りはほとんど牧草地か原野の風景の中をさらに進む。地図では解らないのだが上駒を曲がると中頓別町の市街地が遠望できる。遠くに市街地が見えてくるって景色がうれしい。
市街地を通りそのまま更に国道275号線を進む。実は次回のルートを考えると浜頓別から猿払村への訪問はかなり距離が有る。そのために次回の浜頓別訪問時に更に先にデポ地点を確保しないとならない。市街地を抜けて更に国道274号線を進む。途中で「寿公園」を過ぎる。ここでF104Jが目に入ったがとりあえずデポ地点確保のために更に先に進む。
北緯45度のモニュメントまで来たときに雨が一段と強くなった。「ここまでだな」と覚悟を決めここを次回のデポ地点に選定した。GPS携帯を取り出してここの緯度経度を計ってみると「北緯45度00分06秒」と出た。測定座標が「TOUKYOU系」なのだろうか。現在の北緯45度はここから400m程南西になるのだろう。
ま、これは全然どうでも良いのだ。北緯45度ってことは地球をスイカとして4分割した時の切れ目なのだ。その北緯45度が北海道を横切っており、それを誇りたいって意識が地元にあるのは頼もしい。
とりあえずここを次回のデポ地点にして雨を避けるために先の「寿公園」に戻る。ここに日よけのためのベンチにかかる傘を見ていたので、ここで雨宿りだ。で、国道から坂を下ってベンチに向かう芝生で雨のために滑るだろうなってことを気にしすぎてトウクリップから足を外す事を忘れ転倒してベンチに力いっぱい腰を打ってしまった。2、3日アザが残ったが、なんたる失態。なんせ自転車で転倒したのは数年前に小樽で歩道に乗り上げる時に前輪の引き起こしに失敗して以来なのだ。
中頓別町
とりあえず「寿公園」で雨宿りをする。ついでに補給におにぎりを2個食べてこれからの予定を考える。車で来た途中の道が空いていたためか、今日は時間的に余裕がある。まだ11時を少し過ぎたばかりだ。地図を見ながら作戦を立てる。天気が不安定だがとりあえず雨が弱くなったらこの公園に有るF104Jを見学して、その後に役場と郷土資料館そして中頓別神社を参拝することにする。実はここ中頓別には鍾乳洞があるのだが、ここに寄る余裕は難しい。この鍾乳洞には車で来た時にでも寄ってみよう。同じく砂金採取を体験できる所も有るのだがここもパスせざるを得ない。
強い雨は30分程で終わったので早速F104Jを「探る」。
写真で解るように「グスグス」なのだが、良く見ると計器は残っている本物なのだ。普通は全て取り外して外回りだけってものが多いがこれは現役のまま設置されている。コックピットを覗けるように足場が有るのだがここから見る計器は全て搭載されている。残念ながら雨でキャノピーが濡れているので内部を写した画像は鮮明ではないのだ。
機種のピトー管も実物らしくカバーが掛けられてる。この機体を奪ってトラックで運んで共産圏に売れば、ATMをパワーショベルで壊すよりの金になるのではと思うのだけれど、ま、誰もここにF104Jが有るのを知らないか。これほど実物のF104Jを目にするとは思わなかった。
ここを出て市街地に向かう。ここからは2km程だ。まず天北線の中頓別の駅の跡地に向かう。ここは今でも「駅前」と呼ばれているのだろうか。先ほどから中頓別町の雰囲気が解ってくる。とにかく旅館が多いのだ。何故かは解らないが「旅館文化」がこの町では重要らしい。特に旧天北線の駅が有った旧駅前には旅館が多い。駅前はバスターミナルとして利用されてるし、全体が公園化に向けて整備されてるようだ。結構「天北線は過去の歴史、今は新しい歴史を作っているよ」って雰囲気が伝わってくる。
ここからとりあえずの足跡、役場を訪問する。なかなか見つからなかったのだが、その分中頓別の市街地を右に左に走って町の様子が沢山解った。やっと見つけた役場の前で記念撮影。役場の建物はボロイ。このボロイ庁舎がこの地域での役場の役割を説明していると思う。ここ中頓別は役場が最高権威の町では無いのだ。
さきほど国道で「裁判所」って道表示を見つけた。ここには裁判所が有るのだ。旭川簡易裁判所の分署なのだが、この裁判所のために職員宿舎が整備されている。公務員誘致が中頓別の政策なんだろうか。
やっと見つけた郷土資料館は入場料が100円。これくらいの価格だと楽しいよなぁと思いながら受け付けで記帳すると、おっと誰も居ない。客である僕が「すいません、受け付けしてくれますかぁ」と問いかけなければならないのだ。ある意味100円ってことがそうさせてるのかもしれないのだが。
とりあえず郷土資料館の展示室に入る。入り口を入って左に曲がると鍾乳洞を模したトンネルになっている。「ピッチョン」って鍾乳洞をたれる水音が流れる。おっと、これはかなりの細工だなと思いながら進むと自分の足で踏んだ床から「ボコ」って音がする。これは施設の床下の蓋なのだが、鍾乳洞を模したところでこの音を聞く設計は相当なものだ。入り口で雰囲気を感じさせている演出にうなってしまう。
この郷土資料館で驚いたのは「砂金の町、中頓別」の部分。御法度の郷土資料館でのデジカメ撮影で解ると思うが、ここはゴールドラッシュが有った地域なのだ。砂金のみで無く金塊ごろごろだったらしい。写真の金塊模型は鉛なのかそこそこ重いが実際の大きさの金塊は700gを越えていたらしい。これが自然の金塊として日本一大きい金塊なのだ。さらに、発見した人夫がナタで3分割したもっと大きい金塊も有ったらしい。これは1kgを超えるらしい。
こんな時代を経て、明治35年頃に中頓別は農業開拓が始まり、やがて林業の町に替わって行くのだ。その材木を搬出したのが「天北線」でもあったのだ。
現在の中頓別町は酪農の町なのだろう。町内各地に獣魂碑が散見された。畑作は一部の馬鈴薯を除いてほとんど無く、素飼料生産の草地がほとんどだ。
でも、この郷土資料館は時代時代に顔の違う中頓別町を巧く説明していると思う。100円の入場料で貰える小冊子も大変参考になった。
中頓別神社を参拝してこの町に星五つ
地図でここには「中頓別神社」が有ることを知ったので最後にここを参拝したいと考えた。地図で見ると役場から近いのだが、見つからない。町で若い女の子に聞くと「説明すると解りずらいので説明出来ないのだけど」と自分が説明出来ないことを説明してくれる(なんのこっちゃ)。で「方向だけでも教えてくれれば、その近くでもう一回聞くから」と言っておおまかな方向を教えてもらう。その方向は地図とだいぶ違う。で、言われた方向に坂を登ってまた聞いてみると「後ろに見える森が神社だべさ」とのこと。
うーん。地図が間違っているたのだ。鳥居の前に自転車を駐めて階段を登って神社に向かう。なんと、手水が流れてるのだ。多くの場合神社では参拝者が多い時だけ手水を流して、後は枯れているのだが、ここでは四六時中流れているようだ。
先に書いたようにお寺は「会員制」、神社は「地場のボランティア」なのだ。そのボランティアが誰も来ないかもしれないのに手水を流してるのはすごいと思う。
手水で手を洗い、口をゆすいで参拝させてもらった。賽銭の額は書かないが。
なんか「豊かな気持ち」になれる町だ。経済基盤が変わっても、時代の流れが変わっても柔軟に対応してきた歴史が物語る庶民の強さが感じられた。
2003.07.12 (C)Mint 本日の走行 68.0km 走行時間 4:14 (車:片道 300km、往復
600km)
|
All Right Reserved By Mint |