イラク派兵>正当防衛で戦う軍隊、自衛隊
「派兵ありき」のまま閣議決定、その説明会見
12月9日、ついに事務手続きは「閣議決定」まで進んでしまった。自衛隊のイラク派兵の事務手続きがまた一歩進んだ。
いまのイラクの状況を鑑みると「占領軍支援」でしか無い。「イラクを民主的国家にする」って大儀すらイラク人から見たら迷惑な内政干渉だ。
占領軍であるアメリカの意向に添って自衛隊を派兵するのでは無い。日本の国益を考え日本独自の価値観で派兵するのだと小泉純一郎首相は抗弁するが、その国益とは石油外交を指している。国の経済的基盤を国益と言い換えるのは60年前にパレンバンに落下傘降下部隊を派兵したのと同じじゃないか。石油確保のために「南下政策」を選択した昭和16年の「帝国国策要綱」と今回のイラク派兵は同じなのか。この道は何時か来た道ではないのか。
もちろん僕はそこに「国益」の焦点をあてようとは思わない。小泉純一郎首相の抗弁の道具に石油が使われることが腹立たしいのだ。日本の国益とは世界に沢山ある国家の中で日本は「国際紛争の解決に武力を行使しない」との精神を守る国家であるって誇りが「国益」だ。それを守ることが日本のプライドだ。今の小泉純一郎首相はそのプライドをユダヤの商人のようにアメリカに売り渡しているのだ(「ユダヤの商人」は言葉のあやで、ユダヤ人の思想心情を揶揄するつもりは全然無い)
日本国憲法の第二章 戦争の放棄の第一項には以下のように書かれている。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久に
これを放棄する。
自衛隊が違憲だと主張する人はこの憲法9条の2項の記述である。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
僕は自衛隊が違憲だって主張は憲法9条の2項に拘っているわけで、この付帯する2項は削除しても良いと考えている。何故ならば「国権の発動たる戦争」を行わないがテロに代表される自己生存権(防衛権)は認められるのだから、そのための「戦力」
を保持することは何ら憲法に違反しないと考えるからだ。
ま、憲法論は別途項を改めるとして、今回のイラク派兵は「憲法を逸脱してる」と解っての超法規的なものなのか、「憲法に準じている」と信じて法的に何も問題無いとするのか、その説明責任こそが小泉純一郎首相に有ったのだが、官僚の作文朗読の後者だったのは残念以前に小泉純一郎首相ではこの国は持たないなぁと失望しか感じなかった。
正当防衛で外国に派兵する矛盾
物事を例え話にすると単純になって分かり易いが本質を見失うことが多い。その意味で出来れば例え話を避けたいのだが、あえてリクスを負っても例えて話してみたい。
日本国内で正当防衛って感覚は何となく分かり合える。日本の文化での危機到来ってのは、例えば相手が機関銃を持っていれば撃たれるかもしれない、だから予防的に相手を打ち負かしても「正当防衛」と言える。これは日常の文化なのだ。隣人が酔って猟銃を持ち出して玄関の前に立てば相手に対して傷害程度の攻撃は「正当防衛」の範疇に入る。
では、アメリカ開拓時代に西部の酒場で腰に拳銃を下げて入ってきた人間を打ち負かす文化は有るだろうか。兵器を保持するのが各自の生存権で認められてる文化土壌の中では腰に拳銃を下げていても何ら攻撃的態度では無いのだ。事実、日本も江戸時代には武士は刀を常備していたのだから。
自衛隊がイラクで活動する行為の中に戦闘行為が無いと言うのは嘘がある。生存権としての戦闘は有ると考えるべきだろう。この生存権がまた難しい。生存権には「予防的生存権」も含まれるのだ。つまり、悪い言葉で言えば「先制攻撃」のような「予防的生存権」が有る。今回のアメリカのイラク侵攻は、まさに先制攻撃であり、その理論武装は9.11を踏まえた「予防的生存権」と主張されている。
自衛隊が攻撃する基準は「正当防衛」しか無いのが現在の政府の公式見解だ。個人の正当防衛は裁判所が判断するとして、基本的に「予見される危機」を含んだ判例が多い。では自衛隊って組織に同じように適用されるかと言うと、そもそも戦争での殺傷を裁いていない裁判所(司法)では初体験なので判断できない(来たら判決を出す)状況だ。
イラクでは守りは「過剰防衛」にならざるを得ない
そもそも初めて外国に行く隊員も多いだろう。文化の違いは当然なのだがそのストレスに生命の危険ってファクターが加わると何もかもが自分を狙っているように見えて緊張状態は極限に達するだろう。それ故の判断ミスも出てくると思う。
兵士と言うのは個々人が自らの兵器を使って人を殺傷できる。国の政治的判断も何も無い、基本的に独立した機能が軍隊にはある。それが政治の方針と必ずしも一致するとは限らない。目的を明確にして、目的達成を使命として指示すれば軍隊は機能する。がしかし、目的が明確では無く、そのために何をすれば良いのか現場の軍隊に判断を委ねるようじゃ、その結果は決定者に跳ね返ってくる。
前から言っているが自衛隊員が犠牲になることに備えるのは必須だが、同じように自衛隊員が、現地でイラク人を殺傷した場合の対応を小泉純一郎首相は考えているのか。考えていても説明できないのでは国民は小泉純一郎首相を支持はしない。
「テロに屈しない」と「人道支援」この二つの方針を与えて軍隊を派兵したら、派兵された軍隊は時々刻々の場面でどのように判断し、行動したら良いのか判断出来ないだろう。
予断になるが、兵隊ってのは遂行する機能であって判断する機能は無いのだ。これも前に書いたが、自衛隊の人を入れて企画会議をしても全然アイデアが出てこないのだ。でも目的を明示すると死にもの狂いで達成する。それが数十年自衛隊で暮らした人に接した時の感想だ。その人たちに目的を指示しないで武器を持たせて文化の違う外国に出すって判断は判断ミスなのだってことが小泉純一郎首相には解らないのだ。解らない首相に進言する人間も回りに居ないのだ。
これでは回りが全てテロリストに見えてしまう精神の弱い隊員が発砲してしまう偶発的武力行使を未然に防げない。何故なら、隊長が明確な目的を提示出来ず「人道支援が目的だが、テロには気を付けろ」なんて事しか言えないのだがら、隊員には何をすれば良いのか明確にならないのだ。
だから、自衛隊員の偶発的殺傷が起きる可能性に配慮する必要が有るのだ。
テロ撲滅はトップの首を取ること
「国と国の戦争では無い、テロとの戦争なのだ」って発言が多い。で、テロとの戦争を終結するアイデアは出てこない。単に戦争を拡大解釈して「テロとの戦争」と言っているだけ。実はテロとの戦争とは暴力との戦いで日本では広島新聞の「ある勇気の記録」に代表される広域暴力団と戦った経験があるのだ。また、テロと言えば日本は世界で初めて「サリンガスによるテロ」を経験しているのだが、これの経験が何も生きていない。
国と国の戦争では首都陥落か降伏条約締結が終戦の条件だ。テロとの「戦争」(ま、騒動が適語のような気もするが)はトップの拘束が終戦(と言うか、騒動終焉)が終了の条件だ。これは日本だけでは無くて、かつての1920年代のギャングの抗争で暗黒だったアメリカをギャングの抗争を終焉させたのはアルカポネの脱税容疑による逮捕だったのを思い出して欲しい。
オサマビンラディンを拘束出来ず、サダムフセインを拘束出来ないアメリカはこの「テロとの戦い」に敗戦したのだ。その事実を認めないで占領を続けるからアルカイダ以外の民族主義的集団に狙われるのだ。
バクダット空港での航空機攻撃のテロ集団を取材したフランス人記者が書いているが、アルカイダと違う攻撃勢力がイラクに生まれつつある。これはアメリカ占領と戦うイラク民族運動であり、これが台頭してくると事態は更に厄介になる。このあたりは次回に
イラク>アメリカはレジスタンスの台頭に負けるで書こうと思うが、基本的にアメリカはアフガニスタン、そしてイラクとテロとの戦いに敗戦している。
それは、ベトナム戦争の戦訓に学んでいない。首都攻略が戦争に勝利する方法との古い考えではテロとの戦いに勝利出来ないのだ。いまいちど「テロとの戦いに勝利する」とは何なのか考える必要がある。加えて、日本は自衛隊派兵が「人道支援」なのか「テロとの戦いに屈しない」なのか、明確にすべきだろう。
ミッドウェイの戦訓は「ミッドウェイ占領」と「アメリカ機動部隊殲滅」と二股をかけた故に、実戦部隊に二つの方針を科した故の敗北だったことを学ぶべきだ。先の戦争の経験がほとんど無い小泉純一郎首相に、昔で言う「統帥権」を与えた今の憲法の「シビリアン・コントロール」がシビリアンの無知故に機能不全に陥っている現実をもっと国民は認識すべきだ。