札幌雪祭りボイコットを訴える

札幌の上田市長は自衛隊がお嫌い
 なんとも、やれやれなのは、上田市長の感情論による自衛隊嫌い。自衛隊幹部が出席する交流会に欠席するとか毛嫌いしたかと思うと財界に焚き付けられて雪祭りでの真駒内自衛隊会場廃止再考をと頭を下げる。観光収入を雪祭りで、と考える財界からの圧力に、上田市長本人の信念もへったくれも見えてこない。
 毎年恒例の札幌市の雪祭りだが、北海道の多くの都市で雪祭りが行われていることや、その雪像や氷像作りに地元の自衛隊が協力(動員)している事実は意外に知れ渡っていない。そもそも、自衛隊員の給料は国税から支払われてる訳で、自衛隊員が何をしているのかは積極的に情報開示されるべきだし、国民は良い意味で納税者としての主権在民の監視を怠ってはいけない。
 その中で、雪中訓練の名の下に雪祭り会場にて重機を用いて雪像づくりを行う行動が正しく国民に説明されているだろうか。サマワに800人、中越地震で車両930台、人員3600人投入、インド洋津波災害に1000人規模の派遣と「災害救援」+「小泉純一郎面子を保つ」の2面への活動が大きく期待され、冷戦時に比べ国防としての「備え」の機能から積極的に救援、支援へと望まれる機能も変化している。その中で、「備えの合間を見て」みたいな雪祭りの雪像作りは時代の変化と自衛隊の役割の命題の中でまたく無意味な活動になりつつある。
 にも、関わらず今年も規模は縮小されるが雪像作りに自衛隊を動員する。そして来年には真駒内駐屯地を解放した、いわゆる真駒内会場は無くなる。正直言って2004年を表す漢字が「災」であったように、各地で自衛隊にしか出来ない支援を待っている人々が居る。その人々の事を考えると、今年は自衛隊に雪像作りを依頼するのは止めるべきだろう。
 多くの困っている人々への支援の手を、札幌のエゴで雪祭りの雪像作りの人手として奪う。そんな札幌市の市民であることが情けない。その市民感情を感じない上田市長も情けない。

雪像1基分で何人の人を救えるか
 レトリックが過ぎるタイトルだが、自衛隊が災害現場で活躍する場面はなかなかマスコミによって伝えられない。特に朝日新聞は何を考えてるのか、イラク派兵反対のビラを自衛官舎で配ったり訪問インタビューをしている。自分たちの主張は全面に出すが、困ってる人への配慮がまるで無い。長年朝日新聞の読者を続けているので、この言い分に文句があるなら、新聞購読者の意見すら無視する横暴なマスコミってことだ、朝日新聞は。喉元に剣を突きつけておきたくて長年購読してるのだ。
 阪神大震災の時の自衛隊の活躍を取りまとめた「阪神大震災、自衛隊かく戦えり」って本がある。あの大震災から10年になるが、災害復興で現地に入った自衛隊の活動を記録したものだ。
 その中にこんな一節がある。
 公共設備の片づけをしている自衛隊員に「我が家の屋根も動かして欲しい」と付近のお年寄りが声をかけてくる。隊長は「任務を放棄できないので、申し訳ないが他の人に頼んで欲しい」と答えるしか無い。
昼休みになって、食事をし休憩してると隊員が一人、二人と現場を離れていく。さっき頼みに来たお年寄りの家に行って手伝っているのだ。しかも1時には現場に戻ってくる。隊長も黙認せざるを得なかったそうだ。
 このように、ある時は「自衛隊は帰れ」の左翼のシュプレキコールを浴びながら、阪神大震災の復興支援に多くの自衛隊員が携わった。
 実は、僕は自衛隊を賞賛しようとの意図は無い。ただ、もっと、国民は現場主義で物を考えなくてはいけない。建前で多くの困っている人に救援の手を差し伸べられないのでは人間的な行動とは言えないじゃないか。
 大通公園で真駒内駐屯地で黙々と雪像作りに励む自衛隊員を見ていると、札幌市民のエゴを見ているようだ。雪像を作る人力を津波被害地で生かす方法を考えるのが人間なのではないか。

前例世襲が時代の閉塞感を生み出した
 前例主義ってのは役所の常套手段で、新しいことはリスクが伴うから絶対責任を負いたくない者は前例の有無が行動の基準になる。
 僕の好きな言葉なのだが、ゲームのファイナルファンタジーのたしか6で主人公が語る場面がある。「今まで色々やってきた事が今の自分になっているけど。その時々の場面では、やるか、やらないかだけ決めてたんだ」。
 結局、複雑な人生も原点に立ち戻ると「やるか、やらないか」の二者択一の積み重ねだってこと。ここで大事なことは「やる」と同じ重さで「やらない」があること。前例世襲ってのはもっとたちが悪くて「やるか、やらないか」すら選択しない状態だ。この選択の無い状態が社会に蔓延し、どうせ世の中変わらないって閉塞感を生み出している。実は、札幌雪祭りにも同じ事が言える。誰も「やるか、やらないか」を決めていない。しいて言えば弱い「やめない」決定が暗にあるのだろう。
 地球が温暖化して、太平洋の島々が海面下になるかもしれず、そのために京都議定書により温暖化防止を世界的にはかろうとしているが、実際の温暖化ガスであるCO2の排出量は減少しない。雪祭りだって雪が無ければ開催できない、年によっては雪不足で遙か50kmも離れた中山峠あたりからトラックを連ねて雪を運んでくる。排気ガスと黒煙を吹き出しながら。まったく、もう、雪祭りの時代では無いことは誰の目にも明らかだろう。
その時代背景を受けて、なおかつ旧社会党的民主党を支持基盤に持つ29年間年金不払いの札幌市長上田氏は「なにもしない」。いや、真駒内会場存続で自衛隊に頭を下げている。これがリーダの有るべき姿なのか、あきれてしまう。(おっと、対朝日新聞と同じ理由で、僕は札幌市民なんだからな。市民の声を聞かない市長ってのは何様なんだと開き直るぞ)

全責任を自分が負う勇気が無ければ出来ない
 閉塞感が国民や市民から奪ったものは「勇気」だと考える。人間が他の動物を違うのは火を使うとか道具を使うことでは無い。好奇心と勇気が他の動物に無い人間の特徴だ。この面で進歩的なので人間には哲学があり、解らないことを知ろうとする学問が蓄積される。そして、言葉や文字により世代間を伝承し積み重なっていく。
 「勇気」が無ければ人間の好奇心を満足させる行動も出来ない。来年(2006年)自然縮小に向かう前に、今(2005年)「雪祭りはやめる」と宣言することが勇気だろう。リーダーシップだろう。多くの家や家族を失った人々が立ち直れないでいる時期に自衛隊が作った雪像を見て楽しめる感覚はどこか矛盾している。人間性を感じない。人間なら他を思いやる心を失ってはいけない。
 我々市民にも出来ることがある。雪祭りボイコットだ。雪祭りに行ったとして家族全員の交通費、食事代1万円くらいを災害復興の募金に回そう。札幌市民のエゴで自衛隊に作らせた雪像なんか見るのをやめよう。アジアで15万人もの命が失われ、それを支援する力もあるのに、何故、雪像作りなんかで浪費するのだ。
 僕は今年(2005年)の雪祭りは国際的に最も恥ずかしい雪祭りになると思う。だから、雪像も見ないし会場にも行かない。何も出来ないが、せめてこうやってインタネで訴えることと、ささやかな寄付を行いたいと考えてる。

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2005.01.20 Mint