ニッポン放送を巡るフジとライブドアの騒動
日本の資本本位経済の矛盾
そもそも、資本本位経済(資本主義とは僕は呼ばない、イデオロギーでは無くて、単なる経済の仕組みの話なのだ)がどのように有るべきかについて僕も答えを持っていない。あえて言えば、発展途上であり人類が知恵を出し合って考えてよりよい方向に持っていくテーマってことだろう。
1990年のバブル崩壊から何故か(たぶん、日本人の好きなトレンド(流行)なのだろう)アメリカ的経営が日本の経営の手本だって反省と言うか狼狽した経営者に胡散臭いコンサルタントが吹聴したトレンド(流行)が幅を効かすようになった。資本本位経済では株主が主役なんですよって考え方は説得力を持っているが、企業は広器であるって考え方との調整が必要なのだが、それは何処かに隠されてしまっているうさんくさいコンサルタントの発言だった。
今の株式会社制度は企業はマネーゲームの対象として運営されている。それは資本本位経済制度が発展途上中であり、とりあえずのルール設定されたものだ。だから、未知の事柄を想定できずに経験則で補おうって緩やかな、もしくは怠慢な制度しか現在は整備されてない。
企業は株主本位で行くべきだとの考え方と言うか文化は多くのユニオンが出資する資本本位主義制度のアメリカで守られなければならないルールなのは解る。しかし日本では株主ってのは同じ文化や制度で語れるのだろうか。実は日本では経営と株主って関係はアメリカ程シビアでも無いし、アメリカ程の文化土壌も無い。にも関わらずアメリカ方式で進めればおのずと矛盾が起きてくるのが今回の事件の背景にあるのではないだろうか。
「企業は誰のもの?」、この問いに答えは千差万別だ。企業の経営者ですら、統一的見解を持っていない。あえて僕流に定義すれば「企業は社会のもの」。だから反社会的企業は存続できない。一連の食中毒隠しで企業生命を断った雪印食品に見られるように、日本では反社会的行動を行った企業は存続できない。アメリカ的資本本位主義ではどうだろう。株主の利益を損なった企業は訴えられる。企業を簡単に閉じるなんてとんでも無い話なのだ。閉じる決定を下した経営陣を株主は損害賠償の相手として訴えるのがアメリカ的資本本位主義経済制度だ。
ライブドアは文化が解ってない
企業は社会のもの、だからこそ、社会を形成する国民毎に企業評価の判断基準は異なる。アメリカの文化と日本の文化が同じでないように、企業のあるべき姿も土壌となる国民の持つ文化によって差違がでてくるのは当然のことだ。
極端な表現をすれば、日本では企業の発行する株は「相互扶助」の助け合いの精紳に立脚し、株そのものは投資の対象とは見られていない文化土壌がある。事業を起こす人を助けるために「出資する」ってのが日本的株所有の論理だ。だから、証券市場で流通する株よりも「持ち合い」で固定的な企業株主が存在し、いわゆる「安定株主」なんて表現される。
本来「安定株主」とは、投機的に株の売買を行わず、長期的に配当を目的に株を購入する層のことだが、日本の文化では「決して売らない株主」ってことになる。決して売らない株が流通する訳も無く、日本で株は個人資産運用の対象からは除外されてきた。昔の北海道瓦斯の株が流通量が少ないので少しでも売買があると株価が乱高下したのも「安定株主」が多い現象が招いたものだ。
日本では東証に上場するのはステータスを得る行為で、不特定多数から出資を募り新たな投資を行うってアメリカ的な株式上場本来の目的は形骸化している。
その文化土壌を理解せず(別に理解する必要は無く、制度に忠実な運用で良いのだけれど)堀江モンは文化を無視してニッポン放送の株を買いあさった。日本にサンケイ・グループにたて突く人間なんか居ないとたかをくくっていたフジもやれやれな奴だし、文化土壌をわきまえない堀江モンもやれやれな奴なのだ。
日本の文化は「判官びいき」なので、国民は無茶する堀江モンって心情なのだろう。だから、逆に視聴率以外何も考えてないワイドショーなんかでちやほやされている。
「日本の文化を変える(買える)」なんて哲学が出好きの堀江モンから伝わって来ないのは、やはり底の浅い人間性しか堀江モンには無いんだろうなぁと伝わってくる。
企業は資本本位主義を脱却すべき
正直、アメリカの文化で成功した資本本位経済制度がそっくり世界のデファクトスタンダードになるとは思えない。にも関わらず証券業界が今まで運営されてきたことに驚くのだが、それは基本的に「日本的暗黙の了解文化」があってこその証券市場だったのだろう。
西武鉄道の堤義昭氏の逮捕を受けて考えさせられるのは、株式の上場によって企業が得られるメリットとリスクのバランスを実は旧体制の企業の経営者は何も考えていなかったってことだろう。唯一堤氏の父親が家憲として残した文面に株式会社のリスクが表記されてるが、もろ刃剣って部分が伝わってなかったのだろう。
「企業は誰のもの」。その答えは立脚する文化土壌によって異なる。アメリカ方式をデファクトスタンダードにするのなら、社会の合意を形成しなくてはいけない。今の日本の証券制度は社会の合意を取り付けたとは言い難い。下衆な言い方をすれば一部の証言業界による証券業界のための証券業界でしか無い。その閉じた身内だけの水ヨーヨーが堀江モンの一突きで破裂したとも言えるだろう。
日本の官民一体の経済運営(これ自体、日本独特なのだが)のもとで、アメリカ的証券取引が行われていたのは、先に述べた「暗黙の了解」の文化があったればこそで、逆に言えば、別な社会規範に依存して存在してきたのが日本の証券業界とも言える。
「日本文化に根差した証券取引」を確立することに怠惰でアメリカ模倣でやってきた証券業界のルーズさが今回の事件と言うか騒動というかに繋がったのだ。
新しい文化を創る騒動なのかなぁ
一過性のドタバタ劇で終わる公算が高いが、ま、冷静に見ているとやはり日本の旧制度が制度疲労を起こしている社会現象の一部が露呈したのが今回のドタバタだろう。
30年も前のことだが学生運動華やかな頃、新しい時代を創る方法論でセクト対立が盛んだった。現体制を破壊して後、新しい時代が来ると信じていたもの、現体制の中でも改革を進めることが出来ると信じていたものにお大きく別れていた。それに加えて僕のように「人生、なるようにしかならない」って諦観組のノンポリも居たのだが。
で、結局どうだたのかと言えば、人間社会は大きなうねりに揺られている木の葉のようなものだ。うねりの浮き沈みに一喜一憂するのでは無く、うねり全体が何処に向かって流れているのか見極めることが肝心だ。若い頃は解らなかったのだが、両親とも商人の家系なので母方の父親、つまりおじいちゃんが商売のこつとして「流れに従い、流れに任せず」とわずか10歳の僕に繰り返し言っていた言葉が今になってわかる。
堀江モンがニッポン放送の株を何パーセント取得したかはうねりの浮き沈みでしかない。今回の事象を見極め、日本社会が何処に向かっているのか、もしくは一歩進んで我々は何処に向かいたいのか、それを考えなくてはいけない。
人類は現在を完成形と思ってはいけない。何事も発展途上で矛盾を含んでいるのだ。その意味で、堀江モン観察日記なんかやってるマスコミ、特にテレビは文化度が最低レベルで、日本の経済発展のために、株式とかはどのようにあるべきか、あたりに焦点をあてて今回のドタバタをより高度な次元に高めるジャーナリズムが望まれる。
ちなみにオールナイト・ニッポンで糸居五郎氏と亀淵昭信氏(カメちゃん)は欠かさず聞いていた。あのカメちゃんがニッポン放送の社長かぁ。何処か人選が甘いんじゃないのフジ・サンケイグループ。