民営化が改革と洗脳されてはいけない

本来語るべきは国のあるべき姿なはず
 「民で出来ることは民で」って小泉純一郎首相の発想は物事の一断面しか表していない。出来るか出来ないか議論する前に、国のあるべき姿に鑑みて「民で行うことが国のあるべき姿に合致するのか」って観点が必要になる。
 小さな政府を目指すってのも同じで、政府は全国機関として外交と防衛に特化すれば良いが、地方自治も同様な観点から小さな地方自治を目指すかどうかは議論が必要だ。もちろん、効率良い地方自治こそが求められるのだが。
 逆説的に「官でおこなうべき事は官で」って方向も国のあるべき姿からは出てくるのだから。単に何でも民営化すれば善だって考え方には落ち着かない。そもそも官を役人全般ととらえるのか、中央政権を担う中央官僚を指すのか、これすら小泉純一郎首相は明確に説明していない。ただ、「小さな政府」と言うとカッコいいとしか思っていない。
 地方自治法が改正されて、地方自治体の施設の管理が1/2以上出資の外郭団体から株式会社も含む「指定管理者制度」の導入が可能になった。ま、自治労なんかは自分の職域を狭められるので自治労の戦いで、「とんでも無い制度」と述べているが、自治労の、市民感覚から程遠い自己チュウな論理展開には「やれやれな奴」と思ってしまう。
 実は官が主導する制度全てに言えることだが、改革の名を借りた「既得権の再編成」が横行する。既得権益を手放さず、あらたな土俵に移行させながら、常に権益の元締めとして君臨する。そんなまやかしが改革の名の下に行われているのが「指定管理者制度」の問題点なのだ。決して、「自治体の公的責任の放棄」では無いのだが、自治労は目先の雇用確保にめがくらんで、実態を見抜く度量が不足してるようだ。

指定管理者制度による民営化
 制度の目的は美辞麗句が並ぶが、基本的に財政逼迫の時代を迎えて箱もの行政で作った公共施設の運営を民間も含めた団体に運営委託するって制度。ま、運営委託も適語では無く「所有権を残したまま、運営権は移管する」って制度。例えば、地区センターなんかを民間企業に運営させ、利用料は運営者の収入にする。民間の能力を活用すれば効率的な運営により運営費が税金から拠出されることも無くなるって、ま、過去に補助金で箱ものを作り、その運営費も交付金で支出してきたが、もう切るよ、但し、逃げ道はあるよって仕組まれた制度といえる。
 税金で建てたのに民間団体が営利目的に自由に使っても良いって制度とも言える。基本は国庫補助で建てた箱ものを売却するまで法律を改正できないので苦肉の策とも言える。
 また、民間能力の活用、低廉なサービスが可能と言ってるが、自分たち(地方自治体、公共団体)の能力が不足していたってことを認めたくないが、認めざるを得ない妙な表現がさなされている。
 そして民間の株式会社は「大いなるビジネス・チャンス」と議会対策も含めて乗り出してくる。なんせ、建物を自ら建てる必要がなく、空間を自由に使って良いのだから、通常の民業に比べて収益率が高い事業が行える。
 ま、税金で作ったものを利益追求の民間団体に自由に使わせるのはまかりならん、って論理については僕は無視する。作った事、自体が問題で出来てしまったらそれはそれ、納税者としての権利を主張するってのは、先の自治労と同じ自己チュウだと思うから。
 問題の本質は箱もの行政が、ここに至って破綻したってこと。その破綻処理に勝手な解釈を付けて新たな利権の温床にすり替える手法そのものが問題なのだ。解決策のようなものは提示するが、基本的な責任はあいまいにする。そもそも、責任をとる体質に無い政治、行政の問題がこの「指定管理者制度」って屁理屈を並べて民営化=改革=善の風潮にただ乗りして流れていくことが問題なのだ。

官がやるべきことは何か
 ま、手法は沢山あるが、財政赤字を抱えて新たな投資もできず、民営化を錦の御旗に切り売り状態に陥ってるのが現状だ。これを1945年の終戦の頃は「たけのこ生活」と呼んだが、ま、この言葉は死語になってるが。(タンスから着物を引き出して、農家に持っていって米に替えてもらう様をあらわしたものが「たけのこ生活」)。
 実は小泉純一郎首相のキャッチコピーの中に「改革の痛みをわかちあう」ってのがある。実は「わかちあって」無い事柄が沢山ある。
http://www.globetown.net/~toyamakiyohiko/freespeech.htm#%82%C6%82%C8%82%E8%82%CC%8D%91%89%EF%8Bc%88%F5(現在は非掲載)となりの国会議員、あなたはいくつご存知ですかに詳しいが、例えば議員年金改正にはまったく手が付けられてない。議員歳費もなんら「改革の痛み」が無い。小泉純一郎首相の口だけの「改革」がいかに自己チュウだったか枚挙にいとまがない。真のリーダーであれば率先垂範こそが改革であり自ら痛みを感じてこそ共感を得られるのだ。口先とマスコミ扇動では失速が近い。だから、来年の任期満了で引くのが自己満足できる限界なのだろう。
 痛みを他人に押し付けて改革を叫んでも、先の「指定管理者制度」のように、世の中をかき回してるだけで、改革してるのでは無いのだ。
 官のやるべきことは、自らも痛みの当事者となり、改革を加速させることだ。いまのままでは、官主導の役人天国改革で終わってしまう。

江戸時代から137年。多少変わったか?
 小学校の社会の時間では、特に中学校の政治経済では侍が士農工商の身分制度で国を治めていた時代から、明治維新、太平洋戦争を経て婦人参政権が認められ日本は封建社会から民主主義の社会に大きく成長した、みたいな近代史を教える。がしかし、本当は何も変わってないのではないだろうか。
 もちろん、その間の経済成長や科学技術の進歩を感受できて生活様式は変化した。ま、進歩したと呼んでもあながち間違いでは無いだろう。しかし、国を治める制度は少しも変わってないと思われる。大化の改新で聖徳太子が律令国家としての日本を建国してから実に1200年以上経つが統治制度は変わっても、士農工商の役を演じる層が入れ替わっただけで、あいかわらずの日本風土。お上が国を治めるって考え方は何も変わっていない。官主導の政治、行政が変わることは無かった。
 改革は、この考え方も含めて変わらなければならない節目にいま日本があるってことを踏まえなくてはいけない。新しいあるべき国家を見据えて、それに向かって何処にも聖域を作らず、改革していく必要がある。そのリーダは政治家の中に見出すのでは無く、個々の国民の心の中に見出さなければならない。その意味で聖域を「ブッコワス」ことが必要なのだ。「官に出来ること」、これは自らリーダシップを発揮して自ら痛みを知ることだ。
 そして、政治家も自らの無駄を切り捨てるリーダーシップを発揮しなければ、掛け声だけの小泉純一郎的な改革は、やがて日本全体に蔓延してこの国を滅ばす。
すでに「指定管理者制度」って好例がある。これは、官の無責任な体質の最たるものだ。作るのは他人の税金(多くの場合、国や都道府県の補助が半分以上)で、運営も他人の税金で(地方交付税算定に施設運営費が加算される)って考えで地方自治といえるのか。そこを見直して反省すべき点を明らかにして(自己批判して)それから、市民に運営方法を問うのが筋だろう。
 困ったから、町の金持ちに引き取ってもらった、ってのじゃぁ、地方自治とはいえない。そもそも建てるときに自治無く、運営するに自治無しなのだから。

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2005.09.26 Mint