日銀の福井俊彦総裁が村上ファンドに1000万円を出資

村上ファンドは1口10億円が相場
 報道によると1999年に福井俊彦日銀総裁が富士通総研の理事を務めていたときに村上ファンドに1000万円の投資を行っていたことが13日の参院財政金融委員会で解ったとのこと。実際に委員会で本人が発言している。オリックスの宮内義彦会長の仲介だったらしい。
富士通総研の複数人と村上ファンド設立時に1000万円を投資したのだが、その小額投資を認めた村上世彰氏が当時の富士通総研の理事の肩書きを営業に利用する目的があったからではないのか。しかも、2003年に日銀総裁に就任しても継続したのは「日銀総裁も出資してる」と営業するためであり、精算しなかったのは村上ファンド側から利益配分の上乗せ等の有利な条件を提示されてたのではないか。
 自分が利用されてるって意識が無いまま、投資ファンドを続けていた日銀総裁ってのは前代未聞だ。中央銀行のトップとして、日本の金融を預かるって意識よりも個人の利殖を優先する姿勢(何か自己利益を得る行動を行ったって意味では無く)は責められて当然だろう。
 公明党の冬柴鉄三幹事長の「日銀総裁になる前の話で責められるべき点はない」なんて談話は事実誤認もはなはだしい。日銀総裁になるまでに精算しなかったのは、まさに日銀総裁としての姿勢に問題がある。そのことを「前の話」で終わらそうとする公明党も同様な「姿勢」(この場合は政権与党に固執して黒を白と言う自己保身)を問われることになる。
 村上ファンドは旧通産省の人脈ラインだから、通産省の同期で民主党の松井孝治参院議員なんかも臑に傷を持ってはいないのか。小沢代表が責め挙げたら前の菅直人氏の「未納三兄弟発言」のように火の粉が自分に降掛かってこないか注意が必要だ。
責めるべきは「中央銀行の総裁として、村上ファンドに利用された責任」に絞るべきだろう。「村上ファンド=悪」の構造は国民には解り易いが、本質では無いのだから。

最近の事件はモラルの欠如
 モラルの欠如に特に著しいのが「金」がらみのモラルハザードだろう。とりもなおさず、自己中心的な姿勢が前面に出ている。村上氏の「お金儲けはいけないですかぁ」も日本の文化土壌から見て好ましくないってことだろう。日本の文化は自分のために行う行為よりも他人のため、ひいては公のために行う行為を尊ぶ。また、同様に個人が富めるよりも社会が富める事を目指した行為を尊ぶ。
 この文化が日本にあったからこそ、西欧のキリスト教と教会の機能が無くても社会の健全さが保たれていた。とまぁ、前にも書いたかも知れないが。
 新渡戸稲造の武士道(bushidou)を読むと権力と金は対極にあるくらい離れたもので無ければいけない、江戸時代の士農工商は単に身分制度として見るよりは権力構造の仕組みと見るべきかもしれない。武士が頂点に居るなら金を握る商人とは一番離れた身分関係に位置づけられる。そんな考えがあったのだろうか。
 教育基本法の見直しの論議の中に「愛国心」があるが、先に述べたように「公の精神」と表記すべきだろう。教科書は新渡戸稲造の武士道を使えば良いだろう。そこにはイデオロギーは無い、日教組や北教組がグダグダ言う筋は無い、日本の古来の文化を教えることに何の問題があるはずもない。そもそも、冷戦の時代が終わっているので、何時までイデオロギー対立をしてるつもりなのか。結局イデオロギーに形を借りた条件闘争ではないか。それは、それで、今の社会に蔓延するモラルハザードなのだ。

民主党の攻めは何時も方向違い
 ここまで書いていてニュースを見ると野党は一致して福井俊彦日銀総裁の責任をそして小泉純一郎首相の責任を追及する方向で一致したらしい。問題はその方法で有る。議論の論旨が何時もブレル民主党だが、今回も要領の悪い対応にならないか心配だ。
 さすが日本文化の観点から論陣を張ることは無いと思うが、少なくとも与党に「総裁になる前の出来事」みたいな答弁の余地を残さずに攻めてもらいたい。
 国会での無駄な議論の最たるものに「首相に見解を伺いたい」なんて切り出しが有る。小泉純一郎首相の答弁を受けて「物事が解ってないですなぁ」なんて対応をする。これは正直言って時間の無駄。小泉純一郎首相の答弁が「はぐらかし」だという前に、自分の質問の方法を工夫したらよい。そもそも、国会での論議の場は国民へのパフォーマンスの場で国会運営は影で国会対策委員長同士の話し合いで決まるって悪弊を何時まで世襲するつもりなのか。
与野党馴れ合いの構造が「国会対策委員長会議」なのだ。政党に属しているとは言え、議員は個々人で万を数える国民の支持を背負っている。その支持に答えずに、国会運営のルールばかりに振り回されては支持者不在、ひいては国民不在の国会になってしまっている。
 前回の「メール疑惑」の問題は国会運営の拙さと言うよりも作戦の拙さだった。ホリエモンからの政治献金なんてどうでも良い、基本は格差社会の是非であったのだから、その線で戦えば良いのにホリエモンと武部幹事長の息子のスキャンダル暴きに方向が変化して手痛い「オウンゴール」を記したのだ。
 軸を設定して軸からブレナイって監査機能が民主党には薄い、だから「未納三兄弟事件」であり「電子メール事件」が起こる。前者は未納者だ! って叫ぶことでは無い、国民年金制度が破綻している実態を、制度の信頼が薄れていることに起因する構造問題だと論点はあったはず
また、後者は若手の暴走を見てみぬ振りした執行部の責任。本来の論旨は「規制緩和には表と裏があり、裏への対応が手ぬるい。一例としてライブドアにはこんな内部告発がある。ま、ニセモノでしょうが、それを流すことにより組織を批判する動きがある」ってネタだった。
 民主党が集団として政治力を発揮できないのは哲学が無いから。自民党は「政権を堅持」って哲学がある。ある意味、自民党に居ることが自分の保身に繋がるって求心力だ。方や民主党には求心力は何も無い。だから、暴走族議員は出るは、テレビタックルでのレギュラーのバラ議出るは、要は求心力が無いから集団としてリーダーシップが無い。だから、小沢一郎待望論なんだろうが、基本は個々の議員の自律した大人の行動が無いのが最大原因のだ。

行政に求められる倫理観で攻めろ
 行政は公僕である。ある種先に述べた武士道の世界で有らねばならない。が、実態はいわゆる高級官僚による公の私物化が横行している。何故なら、行政こそが「公の論理」の代表でなければ日本の社会は成り立たないのだが、行政にまで「個人の自由」が蔓延してる。職業による倫理観てのはある訳で、公僕は公僕たる誇りを高い倫理観で勤めてこそ、国民の税金を扱う資格があるのだ。下僕では無い、公僕たる資格が倫理観だ。
 しかるに、小泉純一郎首相は「官で出来ることは官で、民で出来ることは民で」と言うが、その線引きはどうなっているのか、単にキャッチ・コピーだけだったのが5年間の小泉政権の真髄ではないのか。
 そもそも、行政のトップとして、公僕に向かってメッセージを発した事があるのか。所詮、自民党総裁以上の内閣総理大臣の仕事はしてこなかった。例えば、日銀総裁の村上ファンド預託事件でも「個人の問題、総裁就任以前の問題」と言うが、公人として高い倫理観を求められるって職責にある者が取るべき姿勢としてどうなのか、考えを伺いたい。

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