行政に求めよう!「高効率」
現在の全国の市町村数がどれくらいかご存じだろうか。3500前後と言われている。このうち北海道には212市町村、全国面積の20%だから少ないほうだろう。GNPが4%だから、多いほうかもしれない。どちらにしても、大きな薄い市町村が北海道には多いことになる。
さて、北海道を例にするまでもなく、現在の市町村数が妥当なかずかどうか考えてみたい。住民の生活圏は広域化し、住居と職場の市町村が違う国民はどれくらいの割合になるだろうか。ベッドタウンてのもおかしな表現で、寝るだけの市町村って非常にその市町村を馬鹿にした表現ではないだろうか。逆な表現をすれば単機能の市町村なら、その市町村は複合的機能を持つために周辺市町村との合併を志向すべきであろう。
何故ならば、単機能故の社会問題が想定されるから。
同一年代同一機能が集約した市町村は、同一年代が1年で1歳年齢が上がると伴に、それに準じた社会インフラの整備を要求される。住民が持ち家が欲しくて住みつき、公共交通の利便性向上への投資が要求され、子供の教育環境の整備が要求され、やがて定年リタイアとともに医療の充実が要求され、そして墓場の整備が要求される。
住民の世代変化に準じてイフラ整備を行っていては、最後は誰も通わない学校と誰も使わない広い道路と、患者の居ない病院と、そして、誰もが入る墓場だけの市町村になってしまう。
このインフラ整備に税金を投入しているうちに、慢性的非効率市町村ができあがってくる。本来、行政は大きいか小さいか以前に、「高効率」を要求されているし、住民もこれを求めなくてはゴーストタウンに向けて直進してるだけである。
今欲しいものを要求するのではなく、将来とも必要なものを念頭に置いた長期的視野でインフラ整備を進めなくてはいけない。
青森のサンナイマルヤマ遺跡が語るのは、3000年の長きに渡り縄文人が利用し生き続けた地域とは、どんなものであったかである。現在の単機能で短期的住民ニーズ対応型の市町村には参考にしてもたいたい。
市町村における多様性志向
サンナイマルヤマは常時200名程度の集落であったらしい。この数は現代と比較にはならないが、当時としては「都市」と呼ぶにふさわしい集落規模であっただろう。ここに、3000年も住み続けた理由は多々あるだろうが、同じ「都市」集落の長期的ビジョンを考えると、現在の市町村は3000年の長きに渡り継続できる体をなしているのか。
以下、市町村の多様性の矛盾を考えてみる。
一つには、全て自賄いで調達しようとする姿勢に問題がある。公園も博物館も美術館も全て持ちたい企画が多いが、はたして生活圏の広い住民のニーズに合致しているのだろうか。スケールメリットを追求した広域圏を対象にした公園、博物館、美術館こそが地域文化の担い手である。同じような企画で全予算のほとんどを建物につぎ込んで、お粗末な展示品しか無いものを各自が用意しても、本来の効果は生まれない。
そこで、「相互保管の原則」を提案したい。特に、小さな郷土資料館を否定するものでは無いのを断っておくが、文化の発信を担う広域博物館、広域図書館は絶対に必要である。集中することによるメリットは、特に展示品であるソフトウェア重視の方向で完備可能である。
同様な例に医療福祉がある。現在の高齢化対策の一環としての老人保健施設。この設置基準は50床が最低単位である。がしかし、過疎により50では大きすぎる市町村が点在する。
これは、消防の例が参考になるかもしれないが、小さな町村では広域に消防組合を作り複数の町村で1つの消防組織を編成している。
同様に、複数の町村が集まって福祉なりを行う事を可能にすべきである。
そこで、表題の市町村合併の推進の話になる。市町村は住民サービスの一環として多様なサービスを志向するかもしれないが、住民の生活圏が市町村域を超えている現在、多様性もまた、生活圏で語らなければならない。
単独市町村事業のビジョンしかなければ、先のゴーストタウンの実現は近い。
市町村合併が住民ニーズに適う
町村の事務の非効率が叫ばれて久しい。がしかし、批判だけで抜本的解決案の提示が少ない。地域に住み長年慣れ親しんだ職員が親方日の丸的志向をするのは防げないと諦めてはいけない。現在の職員の同期生達は全て町村の中で生活しているだろうか。多くは他の地域に出てしまったのではないか。
このような経済的に厳しい地域に、地域ナンバーワン企業として役場に終身雇用されれば、それだけで安定を保証されたようなものだ。その人々が「親方日の丸」になることは避けられない。
しかし、社会の構造変化は激しく、銀行が潰れ、証券会社が潰れ、日本は新たな時代に向けて戦後50年の総括を迫られ、実施せざるを得ない時代に突入している。北海道においても、北海道拓殖銀行と北海道銀行が大蔵省の指導で合併を余儀なくされ、これは「寄せただけの共倒れ」の批評も一面的を射ている社会背景になっている。
非効率な独自調達が市町村行政の施策としてまかりとおる時代では既に無い。自己改革を求められ、実施出来なかった集団は、黒船によって他己改革を行うしか道は残されていない。企業合併は企業トップの最大のコンフィデンシャル行為であり、また、トップにしか判断出来ないデシジョンでもある。
市町村の組長は、まさに民間企業で言えばトップであり、なおかつ、少なくとも住民の総意で選出された(これも、株式会社の株主総会で承認される役員と同じである)、臨時職員である。改革の責任は、ある種このトップに委ねられた最高指揮権である。そのトップが、広域市町村の合併を頭の隅にでもおいておかなければ、所詮、ゴリ押しの自治省主導の合併劇に晒されるのは火を見るより明らかである。
拓殖銀行と北海道銀行の合併とは、まさに、組織の論理よりもマーケットの論理が優先する、厳しいが、あたりまえの事を、再度我々に考えさせる契機である。それは必然なのであるから、あとは、だれが籤を引くか、だけである。
マーケットの論理は既に「広域市町村合併による高効率行政実施」にあることは間違いない。これを言い出すのが組長なのか、自治省なのか、どちらにしても住民ニーズの前には、早いか遅いかの違いだけしな無い。