選挙>誰も知事選に手を上げないのは何故?

押されてなるものでは無い北海道知事
 堀知事の不出馬記者会見が行われたのは16日。4月の統一地方選挙では現知事以外の人が知事を務めなくてはいけないことになった。つまり、誰かが北海道知事を務めなくてはいけない。選挙で選ばれるのだからその誰かは「立候補」しなければならない。しかし、その様子は感じられない。
 先に書いたように「後出しジャンケン」戦略では無いようだ。巷で噂されてる人々は支持の機運を読んでいるようなのだ。自らが北海道を背負って立つって気概が感じられない。「支持してくれるなら成っても良いよ」って感じではまた暗黒の4年間を過ごすことになるのか。北海道民の一人として行政のトップが支持が有れば成るでは情けない。自らの意気込みを示してもらいたい。
 石原東京都知事の「後出しジャンケン」は実はその何年も前に負けてる裏返しなのだ。当時、美濃部都知事が不出馬を宣言し、石原氏が立候補宣言をすると、土壇場の3月10日なって美濃部氏が再出馬宣言した。これは石原には任せられないって守旧派が持ち上げたのだ。都民の石原警戒感から美濃部氏は「無難な選択」として都知事に選ばれたのだ。
 前回の選挙はドングリの背比べ状態だった乱立の中で、細かく票が割れる選挙戦なら石原有利って状況で前回のリベンジに急遽、石原氏が立候補したものだ。地方から日本を変えると改革派の知事が全国に出始めた機運も味方した。

昨今の選挙の弊害は満場一致
 確かに冷戦後、右だ左だって言ってるのは共産党くらいなものだろう。護憲の社民党もかつての勢いは無い。自民党と公明党と保守新党の与党グループと野党第一党の民主党との差も解りづらい。
 イデオロギーの対立が政治の場に持ち込まれたのは冷戦ってバックボーンが有ったからだろう。今、国民は政治には国の運営、未来を保証する国策の立案を求めている。また、知事選のような地方自治選挙では行政のトップとして地域を引っ張っていくリーダシップを求めている。この違いが「政治の世界の地方と中央のネジレ」などと呼ばれるが、地方と中央では選挙で選ばれる人々の役割が違うのだ。地方自治と国政は全然別なものなのだ。それを冷戦の時代のイデオロギー至上主義の一種異常な事態を異常と認識しないから、「ネジレ」に見えてしまうのだ。自民党が推薦した知事だってことだけで当選に一歩近づく訳では無いのだ。
 が、現在まで新知事に名乗りを上げるのではないかと思われてる人々(複数)は支持母体からの支持が明確になるのを待っている。支持母体を選挙前に確保しておいて、絶対不敗の体制が整わなくては立候補宣言しないつもりらしい。それは、それで個人が先に書いた「意欲と気概と実績」で勝負出来ないからだろう。確かに未経験だから「実績」は無いだろうが、別な分野で上げた実績を北海道庁に持ち込むってのでも説得力は有るのだ。
 何故、名前の上がっている人々(複数)は堀不出馬の瞬間に立候補宣言しなかったのだろうか。もう、遅いけど。

今年は悪くするとデモ再来の年になる
 世界が混沌として不安定になっていると本当に市民は感じているだろうか。僕はその目安は街頭デモが頻繁に行われるかどうかだと思っている。実は成人式で騒ぐ若者を考えると、行き着く所は「自己表現」なのだ。閉塞感の有る社会で自分は何を担ったら良いのか、自己実現への迷いが若者を中心に広まり、蓄積されてきてる。この目に見えないエネルギーがやがて爆発してマグマのように流れ出す時期はここ数年だと読んでいる。
 アルカイダの例は平和からはほど遠い方向に進んだが、基本は石油経済により国が裕福になり子供が沢山産まれた。しかし、産業の育成が進まず、就労すべき職業が無い。先進国で言う失業率は50%近いのだ。その状態で若者は兵士にでもなるしか無い。これを巧みに操って米国へ向けてテロ行為を行ったのがオサマ・ビン・ラディンなのだ。
この構造に日本も進まないとも限らない。高校生の就業率が60%ではアルカイダと同じ政治経済状況になるのは明らかだ。しかも、就職氷河期は何年も続き、地下に蓄積されたマグマのエネルギーは大きい。
 これが時代の閉塞感なのだ。ここで正しいリーダが出るか悪いリーダが出るかは紙一重だろう。その意味で受け身の主体性の無い、支持母体待ちの候補者を選んでも良いものだろうか。デモの標的になるのか、デモを指揮するのか、これからの選択肢はこのどちらかしか無いのだ。再度言うがこれが時代の閉塞感だ。
これを打破出来るのは主体的で、意欲と気概と実績が有るリーダだけなのだ。鳩山由起夫よ、3月10日に立候補宣言せよ!


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2003.01.20 Mint