北海道知事選挙の妙な静けさは地方自治の崩壊
静か過ぎる、何故なんだ
4月10日の統一地方選挙が決まっているのに、1月も25日になってまだ北海道知事に立候補を表明した者は「参加する事に意義がある」って共産党の候補だけだ。もちろん、彼が本命であるはずが無いのだが、今の状況では誰も立候補せずに無投票になってしまうのでは無いかと冗談の一つも言いたくなる状況だ。
選挙まで70日余にも関わらず自民党の候補者一本化もままならず、なおかつ名前の上がっている人は許諾の有無を未だ表明していない。最悪なシナリオがやっと党内一本化したにも関わらず断られたって事だろう。それが起きない保証は何処にも無い。
一方、ニセコ町の逢坂氏も立候補に向けて熟慮中だろうが、対立候補が誰なのか明確になった時点で意志決定するだろう。ニセコ町長を辞して立候補するからには、落選してニセコに戻るって事は出来ない。少なくとも掘り現知事の不出馬で出馬の壁は取り払われつつあるが、相手の見えない立候補宣言は行わないだろう。
すでに本命無き選挙戦は決定的になっている。
共通一次試験が作った「合格史上主義」
選挙で勝つことが立候補の条件だとしたら、本来のデモクラシーとはだいぶ違った所に行ってしまう。政策や考え方を候補者相互に戦わし、住民が選ぶのが選挙だ。最近の選挙は「選ぶ」が「預託する」に変化しつつあるのだが。それにしても、北海道知事になることが目的では無く、北海道知事として何を実現したいのかが見えてこない。細かな政策よりも分かりやすい一言で北海道知事として何をしたいかを訴えるべきだろう。
今の巷で名前の上がっている立候補予備軍は「知事になれるかどうか」を熟慮している。知事になって何をしたいのか考えて無いのだ。これくらい住民を馬鹿にした話は無い。北海道知事って椅子が有って、ことしの4月には座る人が変わる。「まず、椅子ありき」では住民も白けてしまう。
その椅子に座る資格が有ると思うのなら積極的に情報発信すべきだ。現状は「座らせてくれる組織、団体探し」に終始している。それでは、住民本位の行政なんか出来る訳がない。
「合格」が目的では無く「合格後」が目的なのだと肝に銘じるべきである。
自己主張が出来ない人間性
選挙は多くの得票を得た者の勝ちである。しかも知事選は1位しか当選しない。その制度の中で自ら立候補し住民に「知事になったらどんな北海道を作るのか」を訴え、票を得ていくプロセスを踏まなくてはいけない。そのために訴える期間が選挙期間の2週間で十分と思う。車で街宣するよりはテレビ討論会等を頻繁に行えば良い。それだけメディアは発達しているのだから。
しかし、立候補までのプロセスが「御輿を担ぐ人探しに翻弄」ではいただけない。そんな人がリーダーシップを発揮できるとも思えない。
自ら「北海道知事になって、こんな北海道を作りたい」と言う思いが無いのであれば、いくら推薦されようが、御輿に乗せられようが、立候補すべきでは無い。自己主張が出来なく調整型の知事が辿った道をまた辿るだけなのだから。
「この道は、何時か来た道」では北海道民は不幸すぎるではないか。