冬のソナタのノーカット版放映
最近ドラマネタが無い
マスコミでは「チェ・ジウ」と表記されてるが、実際には「チェ・ジゥ」が近いのではと思う。面倒なので日本人に発音しやすい「チェ・ジュウ」と表記するが、たいして違和感は無いと思う。
じつは、はまってます。「冬のソナタ」は半年ほど前に地上波で最終回だけ見たのだけれど、その時は特に何も感じなかった。しいて言えばアジア系で無いペ・ヨンジュンが新鮮な感じだったが、日本でこれほどブームになる原因は理解できなかった。
今回、たまったま11月に放送された「冬のソナタ番組」を見た時にNHKで放送したのは全て59分にカットしたもので、本当はノーカットで放送して欲しかったって監督の言葉を聞いて、どうせ見るならノーカット版でと思った。
DVDプレイヤーの威力と言うのかビデオでは劣化する画質がデジタル故に鮮明に再生できるので春川の情景と同じ情景が北海道に無いか探したくて録画始めた。実は、1回目でチェ・ジュウにはまってしまったのが理由。最初の高校生の頃は東ちづる風、後半はNHKの朝7時のニュースキャスターの高橋美鈴アナウンサー(北海道、室蘭出身です)風なチェ・ジュウが見たくて見ているような状態だ。
ストーリーは単純で特に凝ったものではないが、ドラマ作りの基本がしっかり入っているってことで僕的には評価が高いドラマにノミネートされている。
まず、ラストクリスマス
実は、今年の秋からまたドラマを見始めた。「さよなら小津先生」のSPがあった頃からドラマ見に戻ってしまった。もっとも、生で見ることは少なくDVDで録画して見ることが多いが。
さよなら小津先生自体は3年B組、金八先生にぶつけるように放送されたが、ま、田村正和の先生役も年齢的な限界を越えていて、ご愛敬ってことだろうか。イジメをネグレクト問題からアプローチした脚本は少し評価できるが。
実は月9のラストクリマスマスが毎週見てしまうドラマであった。しかも途中から。たぶん、6作目あたりから見始めたと思う。最終回を見なければ特に織田祐二の絡むラブストーリーには興味が無かったのだが、最終回の出来がかろうじて「月9」のステータスを守り抜いたってことだろうか。
ラストクリスマスのラストは「最後のクリスマス」なのか「去年のクリスマス」なのか、英語的には去年のクリスマスなのだが、最終回まで「最後のクリスマス」で引っ張って、最終回で「去年のクリスマス」の落とすあたりは、ま、読めていたと言ったら言い過ぎだが予想の範囲ではあった。もし、「最後のクリスマス」でストーリーが終わったら「笑い者」になっていただろうが、ここはしっかり軟着陸させていた。
再発を予想して5年後のクリスマスプレゼント用にビデオを残すあたりは、憎い演出と言えるだろう。また、このカットに向けてのドラマ全体の流れの中での矢田亜紀子の演技だったのかと感心する。つまり、5年後の誰かにビデオを残すような性格の主人公をしっかり作っていた。ラストクリスマスのプレゼントは5年後の自分へのプレゼントであり、自分より大切な人(例え自分がその時亡くなっていたとしても)へのプレゼントなのだろう。
この部分は「愛する人ってのは、自分
より大切な人」って現在の自己チュウな人では発想できない愛の形の一形態なのだ。現代の個々人が忘れてしまった愛の形を描くドラマが高齢者から低年齢層に伝わっていくのが愛のドラマが広まるきっかけなのかもしれない。でも、それをジュリアナでパンツ見せて踊っていた世代が担うってのもやれやれな訳で、結局日本は韓国的な儒教の思想、礼節を知る社会に回帰しつつあるのかもしれない。少なくとも僕はそれを歓迎してる。だから、冬のソナタもラストクリスマスも心に届くドラマだった。(踊る大捜査線「レインボーブリッジを閉鎖せよ」は、別項で書くが、心に届かなかった)
日本のドラマ研究の集大成を見る「冬のソナタ」
で、話は冬のソナタに戻るが、異色なのはこのドラマを日本に持ち込んだのはNHKだってこと。制作が韓国のKBSなので、その流れなのかもしれないが、このドラマを日本で放送しようと考えた根拠が解らない。日韓交流って政治的判断で行ったって説明が一番説得力あると思う。ドラマ自体の出来が良いとは思えない。
ただ、NHKが作れない民放のドラマ制作の手法が随所に埋め込まれてるのには驚く。
本来ストーリを描くには余計な役者の目的地への移動シーンに曲をかぶせて全体のテンポを保つ手法は「男女七人夏物語」で使われた手法。主人公の恋敵は何処でもあるが、イジメと絡めるのは古くは「スチワーデス物語」の片平なぎさの役、最近では「家なき子」の手法か。日本でバブル時期に多かった、いわゆるトレンディ・ドラマの手法も散見される。スキー場を舞台に選んだのは僕が最高の日本映画と考えている「わたしをスキーに連れてって」の手法だし、女性の職業としてインテリアデザイナーから一歩進めて建設コーディネートなのは「渡る世間は鬼ばかり」で使われてる。
記憶喪失ものなら韓国でも放送された山口百恵の「赤いシリーズ」だろう。
そもそも、韓国ドラマの基本は「いじめ、記憶喪失、再発、失明、三角関係」が定番らしいので、それって、日本のドラマでも基本だった時代があったよね。ただ、先にラストクリスマスを例示したように、「愛の形」には様々な場面があって、冬のソナタもラスト・クリスマスもそれぞれの1場面なのだが。
研究されるものの弱み
実はNHKもトレンディドラマを作りたかったのだろう。しかし、視聴者層を考えると作れない。冬のソナタにはトレンディドラマ手法で作られているにも関わらず「家族」が出てくる。日本のトレンディドラマに欠けていた非現実性は家族が描かれてない点と、高卒主人公がたいした仕事もしてないのに家賃なんぼのマンションに住んでるんやぁって非現実性。ま、これが、ドラマである所以かもしれないが。
映像を創るテクニックや全体の流れの構成なんかは相当真似されてると感じる。実は「冬のソナタ」自体が韓国から見た日韓交流の作品なのかもしれない。儒教の文化色の強い韓国故の演出もあるが、これも「NHK的な」にはフィットするのだろう。
そして、「冬のソナタ」を突きつけられて日本のドラマ作家はどのように対抗しようと考えているのだろうか。この点が一番気になる。何も進歩無くて数年経てば誰かがインタネで「月9は冬のソナタの真似だ」と書き始めるだろう。
日本のドラマのエッセンスを真似したら「冬のソナタ」が出来上がった。と見える。逆に考えるとこれを越えた演出や映像を目指して日本でドラマ作りをする必要がある。常に、新しいものを創るのが芸術だろう。その意味で「冬のソナタ」は日本のドラマ作りへのインパクトを与える黒船的存在と言えるだろう。
ラストクリスマス程度では冬のソナタへの返礼とは呼びがたい。