さらに、裸の王様「卒業生に贈る言葉」
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先の、発言への補足
先の「裸の王様」の論旨は卒業式としては無難な所かもしれないが、実際にはもっとひねって考えてみる必要があると思われる。何故なら、現代社会は王様を「裸」と示すことで安心し、共同の価値観を持つ愚を重ねていると思われるから。
王様は服を着ていた。しかし、それは誰にも見えない。見えない事を常識とし、見えることを非常識と考えたら、童話が示す事とまったく逆のことが示唆される。
現代の科学、理工離れの遠因に学校教育での学年別問題の指導ランクがある。
単純な例をあげよう。電池の直列と並列の接続による効果の違いって理科の学習がある。電球1個と2個の電池を利用して、電池を直列接続にした場合の電球の明るさと電池を並列接続場合の電球の明るさの違いを述べることになる。単純に書類の上では直列では3ボルト、並列では1.5ボルトなので3ボルトのほうが電球は明るく輝く。しかし、これは試験のための問題でしか無く、実際はこうは単純では無い。
まず、電球が明るく輝くのは電球の発熱量が多いためで、これは電流の累乗と抵抗の積で求められる。決して起電力の電圧では無い。その証拠に電池の内部抵抗(これが馬鹿にならない程大きい)が考慮されていない。直列は並列の倍電球を輝かすのでは無い。
子供達はミニ4駆なんかでニッカド電池を使っているので、同じ2本の電池であるが、ニッカドとマンガンではミニ4駆のスピードが違うことを体験している。これは内部抵抗に起因している。しかし、これを科学的に説明するのは「中学校に行ってから習いましょう」なのだ。
加えて、こないだ怒ったことがある。電池を3本使って、2本は尻合わせして3本をつなぐと3本あるが両端電圧は1.5ボルトになる。つまり、逆に入れた電池で電圧の相殺が起こるのである。がしかし、学校の先生によると学習指導要項の改定により、「ゆとりある教育」実現のため、この単元では「電池は2本まで」なので、そのような問題は出してはいけないそうだ。馬鹿じゃないだろうか。
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「春」って問題は無いだろう
これは、僕の中学校での体験。高校入試を控えて、もはや内申書なんかに関係ない中学校3年の3学期での理科の試験でのこと。
問題が天文で、小学校の4年生から青少年科学館の天文部だった僕にはどれも一般常識。問題を作成した教師が「質問は無いか」と各教室に回ってくる。
「問題に、春の星座はどれか、とあるのですが、具体的に春とは何月から何月までの間でしょうか。」と質問した。多分に問題が優しくて飽きていたからでもあるのだが。
「そ、それは、常識で考えろ」とまぁ、罠とも知らずに担当の教師は答える。
「古文では春は正月1月から始まります。理科でも1月ですか?」
「理科では1月は冬だ」
「英語ではゼットはジーと発音しないと間違いです。でも、数学ではエックス、ワイ、ゼットです。何故に、教科によって違うのでしょうね。不思議です」
「お前は何を言いたいのだ」
「いえ、3年間、いろいろ教えていただきありがとうございました」
とまぁ、試験問題を想定して有り得ない事象を教える理科への不満を述べさせてもらった。「冬の星座」なんて、夏に朝、暗いうちに起きれば見る事ができるって常識すら許されない授業にいささか嫌気がさしていたのも事実だった。
好奇心をことごとく潰して、服を見えなくする
文部省と日教組の話は次回にでも書こう。今回は「王様は裸でなかったのです」の話。
マスコミの「馬鹿フィルター」も悪いのだけれど、科学的に的確に説明しても記者会見の場で伝わらないと配慮しているのか、事実が正確に伝わらない。文系の記者達にも解るのは警察の嘘の発表だけで、科学技術の分野になると嘘が嘘かどうか吟味出来る能力にすら欠ける。先の東海村臨界事故では笑える話が多い。放射線量のシーベルトをシートベルトと言ったとか、ミリベクレムのミリを忘れても訂正もしないとか、中性子防護服を貸してくれと米軍に電話した自衛隊とか。
さて、本題だが、王様はしっかり服を着ているのだけれど、これを裸と言っておけば良い風潮って恐くないか?
知らなければ、解らなければ、「見えない」。それを「無い」と言いきって良いものだろうか。それを一方で考えなくては本当に「王様は裸じゃないか」と叫べない。本当に裸なのか、それとも自分に服が見えないのか。これを自らに問わなければならない。高校出たての「青二才」じゃないのだから。
服が見えないことと裸の違い
「衣の下に鎧」という常套句がある。その鎧が見えるか見えないかは見る側の力量である。「裸の王様」も下着も付けずにスッポンポンではなかったのだろう。あくまでアウターウェア、ま、下着で王様が歩いても公序良俗に反する訳では無かったのだろう。
裸の王様の話が示唆する所は、「衣の下の鎧」である。
この鎧は見える人と見えない人が居る。見えない人は鎧は無いと思うだろう。つまり、王様は裸に見えるから王様は服を着ていないと短絡的に考えてはいけない。王様の服が見えないことと王様が服を着ていないことにはすごい違いがある。それが、個々の能力の問題で、みんなで「鎧は見えない」=「鎧は無い」としてしまうのは恐い。
見えないことは「見えない」だけであり、無いことの証明にはならない。
「王様は服をちゃんと着ていた、しかしそれが見える国民は誰も居なかった」と「裸の王様」を読み替えてみると、それはそれで、すごく恐ろしい童話ではないだろうか。
何が正しいとかの話では無く、世の中を渡っていくにはそういった視点も持たなくてはいけないって話。
これは、高校生の卒業式で卒業生に贈る言葉を話す時のカウンターバランスとして書いておく必要があると思った。