30人学級に1兆円予算って民主党も能無いなぁ

選挙中にマニフェストをもらったが
 トレンディらしいので町で配っていたマニフェスト(マニフエスト)を貰った。その内容は旧態然とした「公約」となんら変わらなかった。読んですぐ捨てた(笑い)。
で、怒りを感じた。僕が気になるのは2000年から何回も民主党が法案提出している「30人学級法案」だ。これの実現を目指しますと書いている。が、そのために教職員人件費1兆円増額が必要なことは何処にも書いていない。
 僕くらいの年齢になると、30人学級法案は昔の社会党的な政治勢力の拡充を国費で行う労働組合的発想としか感じられないのだ。
 公明党の創価学会、民主党の「30人学級法」かい、って鼻で笑ってしまった。教職員を増やして政治勢力として利用しようってのが30人学級法に見え隠れしているのだ。そこには国民も子供も無い、党の勢力拡大の自己中心なものの考え方しか無いのだ。これでは政権取れないわなぁ。
 かつて自民党がNTTや国鉄を分割民営化して旧社会党の政治基盤を崩壊させた事を逆手に取って政治基盤を「30人学級法」に求めているとしか思えない。そんな事が解らないように、マニフェスト(マニフエスト)には「30人学級実現」としか書かれていない。これは失業対策事業なのか、民主党は教育をどうしたいのか、何も解らない、だた、傘下の支持母体を増やしたいだけのエゴイズムだろう。それが、マニフェスト(マニフエスト)なのか? 教育論に真っ向から挑まず、人海戦術で教育を改革するって発想は何処から出てくるのか。脳みそ使ってないやろぅ。国民や児童生徒の視点無いやんかぁ。自己中毒の「30人学級制度」をユーザーの立場で考えろやぁ。アホちゃうか、教員の増員って発想。

教員を増やしても教育水準は上がらない
 教育は数の問題では無くて質の問題なのだって視点が欲しい。現在の教育は40人学級であれ30人学級であれ「画一的教育の施し」みたいな現場の姿勢や官僚の発想がベースに有る。前にも書いたが、大学で非常勤講師を勤めていると見えてくることが沢山ある。「勉強になる」って言ったほうが良いかもしれない。本当に学生は物事を教えてくれる。
それは「卒業に単位が必要だから履修する」って学生と、「パソコンをもっと使えるようになりたい」って学生の違いなのだ。両者を同じように教室で講義して同じように一定のレベルに教育するのは無理なのだ。だから、興味のある学生に課題を出してクリアすれば期間の途中でも単位を与えている。
 教育の基本は「受ける側」にどれだけ効果が有るかなのであって、教育者にどれだけメリットが有るかなんて全然関係無いのだ。主役は受ける側の児童、生徒、学生に無ければならない。
 今の教育の問題点は何度も言うが「四角い教室で四角い机に向かい四角い黒板を使う」ってことなのだ。教育が画一教育である限りプラス層もマイナス層も含めてゲージを振り切る層が出るのだ、それを教職員の数で対応する仕組みは理不尽だ。伸びる者は伸ばせば良い、落ちこぼれたら手を伸ばせば良い。今の教育は伸びる者を待たせて落ちこぼれに手を伸ばしてるのだ。
それは「義務教育」の使命だ。だが、何故か、九九も出来ない中学生が高校に進学する。「落ちこぼれにすら手が回ってないじゃないか、今の中学校教師はぁ」と言いたい。
 教師が増えて国滅びる。そうでない反論は出来ないだろう。今一度「人を教えるのは人」って意識が欠如している今の教育界を「ブッタギル」必要を感じている。

個別個性を伸ばす教育
 教育の現場って驚くほど民主的で効率が悪い。先生と呼ばれる人たちに聞きたいのだけれど、自身の教育に対する姿勢は解った。で、自身の貢献度はどうなってるんじゃい。そこに教育者として対象である生徒や学生が出てこない。先生相互に徹底的に話し合うのも大切だろう、だが、そこに児童、生徒、学生の視点が無ければならない。校長と教職員の対立、管理する側と管理される側の対立なんて議題は会議の議題では無い。
 にも関わらず会議がその方向に向かうのは組織運営の問題であって教育の問題では無いのだ。それすら教育者が解らないで長時間議論を行い「学校では長時間労働を強いられる」なんて馬鹿なことを言う。基本的にユーザである生徒に向けた時間は削られ、組織論で時間をついやしているのが今の会議なのだ。その無駄な会議を民主的と勘違いしている効率の悪さ、それは教育界が何をやってもOKって状況で、昭和22年当時くらい感覚が麻痺したまま残された実状なのだ。
 すごいなぁと思うのは、60年間改革無くして受け継がれているってことだ。鉄壁の守りで教育界は現場を鉄のカーテンで覆い納税者である国民に情報開示を拒んで来たのだ。それが許された日本の「民主主義」にも僕は若干の疑義を唱えたい。
 で、生徒や学生は個性を持っている。平均値では教育の現場は語れない。統計等で良く言われるのは「統計を知る者は誤差を知る者である」って事。教育が統計で語られる事が既におかしいのだ。人権って用語は個々人の個性での生存権を認める考え方なのだ。だから、画一的では無く、個性を尊重する教育が現場に必要なのだが、現場を離れた教頭や校長には平均値の意識しか無い。そもそもっそれが評価基準で有ることに教育を受ける側の個々人の個性の否定が有るのだけれど。
 個人を平均値で比べてはいけない。これは人格に平均値は無いってことと同じなのだ。学力は個々人の人格に近いのだ、だから、平均値の上か下かって議論は的を外しているってことを認識すべきだ。

残念ながら人を育てるのは人
 教育者って聖職と古来言われてきた。いわゆる「先生さま」って文化だ。これを聖域にし、それを認めたのが今の文部科学省だ。60年前に溯ると「教育を通して日本産業の担い手を育成し、日本の工業力を高める」ってことが義務教育だったのだ。だから、操作する機械のマニュアルを読めて実行できる能力を植え付ける「教育」が重視されて、国費も投入された。教育の目標は「読み書きソロバン」の時代だったのだ。
それを何時まで引きずるのだろうか。日本は「平均」では文盲も居ない社会だが、若い子供たちと話すと敬語一つ使えないのだ。小学生が英語授業を受けるよりも大学生に敬語教育をしたほうが良いと思うのだが、そのあたりの考察は文部科学省には無い。
「おしん」の時代では無い現代で「読み書きソロバン」だけが教育だと思っている文部科学省や教育の現場はどうしようもならないくらいユーザ無視構造なのだ。
1970年代に何故「学生運動」が有ったか。それは教育の抱える矛盾に対する問いかけからスタートしている。その課題に未だ答えを見出せないまま、教職員を増やせば解決するって結論はおかしい。教育にも「教育効率」って考え方を導入すべきだ。
不毛な教育を6、3、3、4と過ごしてきた国民が増えれば増えるほど日本社会の活性度が失われてる現実を見れば、教育を聖域化せずに、「効率の良い教育とは何か」を議論する必要がある。現在の教育の不毛さ、無意味さとは、成績だけで人物評価する現在の内申書がどうもならんほど高校に参考にされてる事実。大学で成績証明書を発行しても企業は初心者として一から教育せざるを得ない事実。
それを目にすると、教育ってのは政治課題では無いと思う。政党が教育に政策を振るうのは政治の教育への介入で憲法違反だろう。教育改革プロジェクトなんかを作り、ここにユーザである国民を参加させ、あるべき教育ビジョンを作り、それを立法化するのが政治の基本だろう。
予算獲得の図式を書くのが政権政党だろう、その意味で実現に必要な税金の額を明記しないマニフェスト(マニフエスト)は、やはり旧来の公約の域を出ないのだ。
民主党よ出直してこい。

ボタン 日教組大会で混乱してる「学力低下」
ボタン 教育制度を一度考え直してはどうだろう

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2003.11.20 Mint