教育制度を一度考え直してはどうだろう
青少年犯罪統計を読んで愕然
青少年の犯罪が増えているのか減っているのか変化無いのか、このあたりの議論をインタネで検索すると結構説得力有る意見に出くわす。実はここのホームページでも「青少年犯罪」のキーワードでの検索は月に1000件ほどある。主に
「青少年犯罪は増えてない」を検索でヒットして読みに来るのだが。
統計データとは面白いもので、データを読む人に先入観があるとそのように読めてしまう。統計の名言「統計を最も知る者は、誤差を知る者である」ってのがよく分かる。その中で「若年層に犯罪(検挙)の割合が多いのは20代の層がおとなしく、犯罪が少ないため」って意見が有った。これは過去20年間の青少年の検挙率の推移を俯瞰しての話。単年度で見ると検挙率にバラツキが有りこれは「警察の方針によるのだろう」ってのが僕の仮説、この意見は長期的に見て年代別のグラフではピークが低年齢化しているのは間違い無いとの仮説。実は、これは正しいようだ。
で、短絡的に「犯罪(検挙)年齢が下がってきている」って話題に進めても良いのだが、別な観点からこの意見を検証してみる。子供達が同じ人間(平均的にって意味)ならば低年齢化には何か要因が有るはずで、最近の子供が先天的に犯罪を犯しやすいってことは無いだろう。その要因は沢山あるだろうが、少なくともここ10年で小学校生中学生当たりに影響した社会の変化を想像すると教育制度の変更が重要な要因のひとつ(あくまで、要因の一つ)ではないだろうか。
週5日制、「ゆとり教育」の名の下に総授業時間の短縮、目標設定型の教師の評価、このあたりが10年前と比べて義務教育制度の大きく変わった点だろうか。
「生きる力を育む教育」は現状出来てない
誰が考え決定しかあまり国民の間で議論はされなかったが、今の義務教育は最低限のハードルを全員がクリア出来る難易度設定を目指してる。おちこぼれを出さないためにはハードルを低くすれば良いって考え方だ。その代わり現場の教師は低くしたハードルを超えられない子供を出さないようにとの通達だ。で、現場としては裁量の範囲でさらにハードルを下げて、全員通してしまうのだ。
子供が義務教育年齢の方は貰ってくる通知票を読んでいるだろうか。そこには「誉め殺し」に近いまるで子供を指導しない(指導に自信のない)文言が並べてある。この話を現場の教師としたら「欠点を指摘し改善を促す事を書いても管理職が書き直せと言ってくる」との話もあった。つまり、管理職が現場をねじ曲げて当たり障りのない(その多くは、無意味と呼んでも良いだろう)指導を行わせている例もあるらしい。そこで子供は何をしても「教育的指導」が無い訳で、自分が他の子供と何が違い、何を目標設定すれば良いのか指導が受けられてないのだ。義務教育が教科書だけで良いなら、それも是認されるだろうが、教師が両親とは違ったプロの目で子供に接し育まなくては「教育」特に「義務教育」としての機能は果たせないのではないか。
数年前の教育のスローガンは「生きる力を育む」であった。それを身につけさせるために具体的な手段が講じられてない。どちらかと言うと「生きる力=生活力」みたいな解釈で、キャンプでもすれば育まれると勘違いしている現場も多い。野外学習が生きる力に結びつくって誤解だ。
実は「生きる力」は「社会性を持った大人に育つ」ってことなのだ。だからある意味スローガンにする事自体が問題なのだが、ま、改めて口に出してみるのも悪くないだろう。その意味で矛盾に満ちたスローガンだと糾弾するつもりは無い。ただ、「社会性を持った大人に育つ」ためには手段として子供にストレスをかけ、ストレスに耐えられる子供に育てていかなければならないのだ。決してスパルタ教育を賛美しているのでは無い、ここで言う生きる力とはまさに「ストレスに耐えられる力」なのだ。そこをはき違えた教育が散見されるのだ。
これも聞いた話だが最近の学校指定写真屋で年度の始めにクラス写真を撮るのに手間取るそうだ。昔は「はい、撮ります」とかけ声をかければ子供が静止して目線をカメラに合わせたものが、今は一瞬たりとも静止することが無い。そのため4,5枚撮らないと使い物にならない、その間、真ん中の先生はニコニコ笑ってカメラを見ているだけ何もしない。ってことらしい。
クラス写真を撮る時に雑談でカメラに集中出来ない子供に「生きる力」はあるだろうか。
また話はそれるが、大学での非常勤講師仲間で高校の校長を定年まで務めた人が深刻な顔で「先生(僕のこと)授業やりずらく無いですか? 私語は絶えないし、携帯電話でメールうってるし」って相談された。こちらは学校の先生の経験の無い「民間人」(笑い)なんだけどなぁ。
実は小学校の低学年なんかでは「静かにしないと叩くよ」的な指導がまかり通っているのかもしれないが、大学ではこうは行かない(別に「叩くよ」でも良いけれどね)。僕は年度最初の講義の時に雑談が多いと言う「小学校で「騒ぐな、私語するな」って訓練積んでも、何故、騒いではいけないか説明しない。だから教室では静かにしなければならないって解る子も居れば解らない子も居る。だけど、「もし、今、地震が来て、みんなが安全に非難できるように先生が話しても、騒いでいて聞こえた人と聞こえない人が出たらどうします。あなたたちの雑談のために避難出来ない友達が亡くなったらどうします。だから、静かにって言うときは大事な話があるのだから、静かにしないと、自分のせいで友達が亡くなったら、どうします」って解るように説明しなければ駄目なんです。ただ、「騒ぐと叩くよ」では教育ではありません。
さて、大学ですから好きにしても良いのだけれど、雑談で話が聞こえない人の身になってください。授業のポイント部分を聞き逃して単位を落としたら。雑談してる人が単位を落とすのは自業自得で好き勝手やってるのでしょうけど、他の人の勉学を邪魔する権利は無い訳です。大学生ですから自己の責任は取らなければなりません
廊下に出るように言われたら従って貰います」。これだけですね。この元校長先生は自分の考えや意志を伝えることが不得手(で、教育出来るのかなぁ)なんですね。
「ゆとり教育」は21世紀への愚作で終わる
義務教育と大学は違うけれど一番違う所は義務教育で先生には「権威」が求められ、大学の特に非常勤講師なんかだと「権力」が求められますね。大学では成績の悪い学生に単位を与えないって「権力」が個々の先生に与えられてます。誰にでも単位発行するようなスチャラカな先生は学生の単位稼ぎに利用されるだけです。
で、義務教育の「権威」とは「先生=先に生まれた者」として生徒を指導する使命、生徒が従ってくる権威なのです。これが求められるのですが、テレビの学園ドラマの影響なのか生徒に迎合する先生が求められる先生像だと先生が勝手に判断して(ま、そのほうがお気楽に仕事出来るんですが)手抜きしてるのが現状ではないかと思います。
あれだけ対立していた文部省(現文部科学省)と日教組(ま、自民党と社会党の対立の代理戦争だったが)が妙に双方手抜きに熱心で「ゆとり教育」なんてことで授業時間をバッサバッサ切り落とし、ハードルも皆が100点取れるレベルに下げている。国民の知らないところで「手抜き談合」やってるように見える。
ここで、話は最初の青少年犯罪とドッキングするのだが、最近の年少者の過激な犯罪は、勉学に落ちこぼれ行き場を失った旧来の「不良」が起こしているのでは無く、どちらかと言うと学業成績が高い「まさか、あの子が」的な層が目立つ。「見えないサインを感じましょう」って言うが「生まれた時から。見えない赤い糸で結ばれている」と同じで見えない糸が何故赤いってわかるんじゃぃ、見えないものは見えない。
ただ、今の義務教育が広い意味で「生きる力」を阻害してるのではないだろうかと感じる。社会と遊離した所に教育が存在してそろそろ60年。社会の中で自分は何を求められてるのか、自分の果たすべき役割とは、それを教えるのが「生きる力の教育」だろう。目標は大きくかかげたが全然出来てない、今の教育の現場を一回見直す必要があるのではないか。
社会を知らない教師が増えすぎた、多くの教師に社会勉強の機会を与え、子供に備わる「生きる力」とは何かを考えて貰いたい。旧来の「不良」では無く勉学に余裕のある子供が行き場を見据えられない現実を直視してもらいたい。そして、指導する力を教師自らに持ってもらいたい。
基礎学力を会得する機会を奪ったら日本に科学技術は育たない。全部を「ゆとり教育」で削るのでは無く、スクラップ&ビルトで授業科目を再編する必要がある。前にも書いたが高校生程度では歴史観は育たないのだ、だから日本史、世界史なんてやめて近代史にすべきだ。英語も学問では無く手段化するために、文法なんて辞めれば良い。理科も実践的にすべきで、冬の星座をおぼえても「生きる力」なんか付かない。
教育に求められているのは聖域化せずに、授業を事業として捕らえ効率を追求することだ。税金を使うと投資対効果がうやむやになる。ここは地方税である固定資産税を全額地域の教育目的税にして特別会計化し、義務教育に使う。そんな大胆な施策をとらなければ「義務教育」の名の元にぬるま湯に漬かっている現場はますます子供を殺していく。