イラク>63年前は悪の枢軸国だった日本

歴史観が無い政治家とジャーナリズム
 前にも書いたので書きたくないのだが、ドイツの宰相ビスマルクは「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言った。まさに、教育現場に「日本史」だとか「世界史」だとか歴史を学ぶカリキュラムが存在するのは「イイクニツクロウ(1192)鎌倉政府」って丸暗記になっている事実を踏まえても、やはり「歴史観」って教育は必要だって国民の合意だろう。その事が解って無いで講義している教育者を沢山知っているが、こんな愚者を許した社会の問題と思っている。当人は情けないくらい「歴史観の無い人間」なのだが。
 今の時代を1935年頃(昭和10年頃)の世界の状勢と比較してみると、同じだなぁって部分を感じると思う。これが、「歴史に学ぶ」なのだが、今の日本で義務教育で60年前を学んだ世代は皆無だろう。だから、今の報道に「歴史観」が無いのは当然なのだ。でも、「当然」で許している国民は「問題」なのだ。
 実は「当時日本は追いつめられて戦争に至った」って歴史観があるのだ。それは大きく分けて白色人種、黒色人種、黄色人種の今の世界の人種の中で、「戦争」と呼ばれながらその本質には大きな違いがあるのだ。いわゆる1940年代の世界大戦はアングロサクソンの戦いのヨーロッパ戦線と白人と黄色人種の戦いのアジアは基本的に違う戦争だった。
 ここは僕の歴史観だとことわっておくが、ヨーロッパ戦線は「馬鹿のヒトラー体制を殺せ」みたいな喧嘩だった。でも対日本は「馬鹿の裕仁体制を殺せ」とはならなかった歴史観を持ってもらいたい。つまり、個人対応と体制対応くらい欧州戦線と対日本戦線の戦略は違ったのだ。
 更につけ加えると、たまたま日独伊(日本、ドイツ、イタリア)三国同盟なんてのが有ったから悪の枢軸国なのだが、それぞれの国には戦争に至る背景が全然違う、ただ、同じ時期だったのだ。
 特に日本について言えば、西欧のアジア植民地支配を自らの支配に替えようとした結果、西欧に圧力をかけられ、経済制裁が耐えられる限度を越えたって歴史観も大切だ。当時の「喧嘩になれば力ずくで押さえることができる、だから、きつい条件を押しつける」ってのは外交の常識だが、戦争に至ってしまうのは外交の失敗だろう。そのバランスを取るのが外交なのだ。それに失敗したのがアメリカで、そのために日本はもちろんだがアメリカも多くの国民の命を失ったのだ。外交に失敗すると国民に犠牲を強いるって例だろう。

アメリカのカードは貧弱
 ブッシュ大統領そのものが既に貧弱な人間なのだが、それは置いておこう。その「貧弱な人間の思想」で動くアメリカの行政制度は「ある意味」讃えるべき行政制度なのだが、ブッシュを選んだアメリカ国民の責任は重い。言い方を替えれば、イラクで米軍の兵器で死ぬ人間への責任は米国市民が負うのだ。それが「米国流民主主義」なのだから死ぬ人間の関係者はアメリカに戦いを挑んでくる。そのために死ぬアメリカ人もでてくるのだ。
考えてみると民主主義を支えるのは「市民」なのだ。古代のアテネで「市民」てのは自己責任で戦いの時には自ら兵士になった人々。それを「市民」と呼んだ。
 資本本位社会では何でも分担になっている。古代アテネの市民は目的別に任務を負っていたのだが、今の社会は自らの責任を個別に誰かに預託してしまっている。その最たるものが地方自治だろう。不要になってしまったのだ、自己責任が。
アメリカの都合でイラクと戦争をする。その「大義」は何かを考え、だから我が国はどうするのかって議論をするべきだ。
忠臣蔵の時代から日本人は「大義」を大切にしたが、今のイラクとアメリカの「餓鬼の喧嘩」に理解を示す小泉首相には国民に説明できる「大義」が無い。昔、青島幸夫氏が当時の佐藤栄作を「アメリカの芸者」と呼んだが、今の小泉首相はアメリカのイラク開戦を指示する理由の説明責任を果たせていない。芸者に「大義」は必要無いのだ。(職業としての「芸者」を差したものでは無いことを断っておきますが)。

ブッシュが馬鹿だから平和できへん!
 これは懐かしい話しだが、当時の阪神タイガースの江本投手が語った「ベンチがアホやから野球できへん」のパクリだ。国民は背景形成を政治に預託しているのだと考えるとわかりやすい。昔「商店街活性化」って当時の通産省の補助金の仕事をしたのだけれど、集められた人々(商店街経営者)の意見は「人口を増やしてくれ」てのが多かった。
役所が地方自治体に補助金を出して調査事業をするってのが変なのだが、地域の商店街は活性化する対象では無くて「終戦処理」する対象なのだ。それが解らない役人の実績積み上げが「地方の商店街活性施策」って予算だろう。
 ま、それについては後から書こうと思うが、基本的に世界の中でアメリカが占める割合を拡大してドルをしてアメリカ国民を豊にするってアメリカの政策は建国200年を向かえても共通のアメリカ国民の悲願だろう。それはアメリカが世界の全ての民族を受け入れる多国籍国家であり、多国籍ってことは地球を代表するって論理の奢りなのだが。
 民族が国家を起こすってのが普通の国家だった時代を経て、アメリカは国民が国家をなすって国なのだ。その意味で大統領になるには「世界の大統領」みたいな責務は有る。がしかし、自分で物事を考えれない2世のブッシュ大統領は見識も無く、理念も無い。
そんな奴がアメリカの大統領になって多くのアメリカ市民を戦争で死に至らしめる権力を有する人間として疑問である。ブッシュには国家感が無い。ただ、ただ、アメリカの経済利権の代表なのだ。それが、五味川氏の「戦争と人間」で描かれた戦争への導火線なのだってことを我々は勉強して精査しなくてはならない。
 アメリカはイラクをどうするつもりなのか見えない。国家体制を再構築するために現在のフセイン政権を壊すのか。だとしたら、イラク国民に新しいイラクのビジョンを開示しなくてはいけない。
 「歴史に学ぶ」観点からアメリカがGHQで戦後支配を日本に行ったと同じことをイラクに利用すると考えているのなら「イラクに暗いな」と言いたい。「ギブミーチューインガム」と進駐軍をある意味歓迎した日本は、実は未成熟な社会だったのだ。その時代と今の時代を重ね合わせて「裕仁信仰を打破したアメリカなんだから、フセイン信仰も打破できる」って考えているとしたら、まったくアングロサクソンの脳天気なのだ。
 第二のベトナム戦争に国民を導くブッシュ大統領を国民が容認してるとすれば、アメリカは病気にかかってるのだ。
1945年の日本への歴史観ってのを書くので参照していただければ幸いである。

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2003.02.06 Mint