ミッドウェイは何度読んだだろう
なにやらイラクに向けてキナ臭いが
アメリカの形を変えた覇権主義に世界は驚いている。その口上は「大量破壊兵器の撲滅」らしいが、自分の国が大量破壊兵器を保有して良くて他の国が保有してはいけないなんて論理は論理破綻している。「サダム・フセイン独裁国家の民主化」、これだってその国の国民が選択する問題で内政干渉に他ならない。「アラブに民主主義を」ってのも解らない。そもそも選挙制度によって選ばれる権力は長期間に2%の支持だけで全国民を支配できることは前に書いた。民主主義制度ってのは発展途上で民主主義制度であればハッピーになるってものでは無い。
今回の北海道知事選挙、札幌市長選挙にも通じるのだが、現職有利は再度書くが2%の理論で構成されるのだ。
最初の選挙で過半数を得る。これは51%。次の選挙で現役支持は25%でも政権を継続出来る。さらに次では13%有れば良い。そして7%、4%、2%でも現役は政権を維持できる。それが今のフセイン政権とは言わないが、選挙と現役有利に今の選挙制度の課題が有るのだ。それは民主主義「制度」の課題と言えるだろう。
仕舞には「我々(アメリカ)側なのか、テロ側なのか」と屋台で飲み潰れたオヤジでも言わない支離滅裂な発言をする。まったく、今のブッシュと蓮池兄に共通するのは「自己中心主義」。僕の表現で言えば地球が自分を中心に回っていると思っている「我思う故に我地軸」って性格。
戦争は最後の手段。その最後の手段に向けて努力するのでは無く、最後の手段に向かわないようにするのが人類の英知なのだ。そんな話しを裏付けたくて数々の歴史書そして戦記を読んできた。最近の本で田原総一郎氏の「昭和の戦争」は時代が変わったからこそ書ける内容だろう。その分析の中心は軍部支配とは軍部のテロに生命の危険を感じた時の政治家達の軟弱さにより、政治家としての国家を担う責任欠如にあると著している。
武力(テロリズム)によって政治を支配した軍部の責任と共に武力に屈した当時の政治家の責任も追求されなくてはいけない。残念なことに東京裁判や横浜裁判で軍部を裁いただけで戦後処理は終わっている。
本当に何故戦争に至ったかをしっかり把握しなくては戦争なんて防げないのだって事が平和憲法信者達には解らない。「戦争を学ぶ事が戦争を防ぐ事につながるのだ」って意見はヒステリックな「戦争が無い社会では戦争のことを学ぶ必要も無いのだ」って意見にかき消される。平和を望む人間が戦争を研究しないで平和が訪れるとは思えない。過去の平和運動の矛盾は「平和に向けた運動」では無くて「平和を盲信する運動」だったからなのだ。現在の反戦デモにも「平和のためなら死んでも良い」みたいな、本末転倒さを感じるのは、本質を語らずに皮相を辿る姿勢に抜本的課題があるのだ。
まず、テロって何かを考えよう
テロとか拉致とか言葉が一人歩きするのは日本を代表とする漢字による「表意文字」をコミュニケーション手段にしている民族共通の文化だと思う。文字には意味は無い。文字を積み重ねて意味を著すってのが英語圏を筆頭に文字の持つ機能である。ところが、漢字だけは文字そのものが意味を持ってしまう。だから、消費税導入に時に中曽根首相は「いわゆる大型間接税は導入しないが、消費税は別である」なんて発言をする。文字が意味を持つので「大型間接税」と「消費税」は機能が同じにも係わらず別な意味に捉えられるのだ。
テロ、テロリズムってものを正確にトレースしていないと思う。先のブッシュ演説で「テロの撲滅」の部分を日本のマスコミは正確に訳していない。いや、訳しきれない文化の違いがアメリカと日本に有ると、あえて弁護しておく。
僕が考えるに「テロ」とは「恐怖による人民の支配」と定義される。少し広義かと思うが、実際に身の回りに「テロ」は結構有るのだと認識していただきたい。例えば警察機構である。警察は手段なのでその根底に有る治安を考えて見よう。基本的に市民の合意は有るが警察ってのは「恐怖による人民の支配」機能なのだ。悪い事(これが何かは市民の合意事項だが)をしたら踏み込まれ人権をないがしろにした「捜査」を受けるって機能は僕の定義では「テロ」の機能なのだ。でも、市民の安全(安心)って立場からこれは容認されているのだ。
つまり、オサマビンラディンだけがテロでは無くて、我々は社会を運営するために「テロ的なもの」を結構有意義に使っているってことを理解しておく必要がある。「テロ全面的に許すまじ」って姿勢は社会正義のあり方って論議で矛盾するのだ。その矛盾を気が付かないで主張し続けるのは「社民党的」と言わざるを得ない。テロを撲滅したら為政者の思う壷なのだって視点もまた必要だと思う。
で、ミッドウェイの話し
前置きが長くなった。そもそも、再度読もうと思ったのは戦争って何なのかをもう一度確認しておきたかったから。
ミッドウェイに関しては多くの書物が有り、僕も読んだが、何度も開いた本は淵田美津雄氏と奥宮正武氏の供著による(株)朝日ソノラマの昭和57年の初版「ミッドウェー」。原著は更に古くて1951年2月に日本出版共同から出されたらしい。
これを20回位読んだだろうか。本はボロボロなので本当は通勤の途中に読むような持ち歩きは無理なのだが、丁寧に扱って再度読んでみた。
実際にその戦争に当事者として存在した著者の感じた事実と、記録を通して知った事後の事実を対比して描いているので非常に参考になる。昨今のビジネス書の「孫氏の兵法に学ぶ」とか「ミッドウェイに学ぶ」とかを読むと全然偽物なのが解る。多くの経営者に読まれていると広報しているブレジデントですらミッドウェイを描けてない。今のいわゆる一流企業の経営者って全然勉強してないのではと「うすら寒く」なる。プレジデント誌程度の歴史観で経営されてる株式会社が辿る「歴史」が見えてしまう。はっきり言って「プレジデント」は悪書である。ヒョーロン家は経営者では無いって基本的な事柄を解っていない。
何度も読んでいるのだが、読む度に違う箇所が記憶に残る。多くの書物で引用されてるミッドウェイだが、僕も映画「ミッドウェイ」の感覚でこの本の内容を見失っていた部分を再発見した。
例えは第一次ミッドウェイ島攻撃に出た友永大尉が「二次攻撃の要有り」と打電させて戻った空母は山口多聞率いる飛龍であった。そして、赤城、加賀、蒼龍が被弾炎上した後に敵空母に向かう攻撃で、愛機の左燃料タンクが被弾で燃料タンクに穴が空き給油不能な状態なのに「燃料は片側だけでいいよ」と言って出撃したのだ。本人はもちろん未帰還、アメリカの記録では突撃自爆したようだ。ただ、ミッドウェイの戦いで友永大尉が命じた「二次攻撃の要あり」の情報が結果として兵器の換装の時間ロスを生んだのだ。当時の友永大尉にその認識が有ったかどうか解らないが、3空母の炎上を見て悲愴感から自爆を決意したのかもしれないと今回改めて事実認識をした。