日教組に戦後教育は歪められ続けた

反省しない集団日教組
 別に日教組を叩き潰したいと思っている訳では無い。ただ、現在から自分が受けた教育を振り返って、義務教育と言いながら現場で横行した教師個人の、そして教職員全体のいい加減さに大人になった今、怒りをおぼえるのだ。
 当時は生徒であり「先生に言い付ける」が正しい生徒の姿だと思っていたのだが、実際、今の年齢になっても「ひどすぎる教育の現場」のトラウマは消えない。根本は「どっち目線で物を考えているんじゃぁ」って基本的な部分にあるのだが、そのあたりに着目する時代では無かったってこともあるだろう。でも、今も含めて「生徒本位」なんて思想は教育の現場にこれっぽっちも無い。そもそも「生徒本位」なんて言うと「生徒に迎合」と批判する。それも、言葉は悪いが教師以前の問題で人間性に疑問を感じる人間が口にするのだから、やれやれな教育の現場と感じるのだ。
 教育は地方自治の象徴って制度を国民は気がついているだろうか。地方自治体には教育委員会って組織があって、地方自治体主導で、国の圧力を受けないで独自に教育、特に義務教育を実施出来る制度を「進駐軍」は憲法に記載した。で、現実は地方自治体の職員の利権になってしまい、住民に開かれた教育委員会には程遠い事実がある。
 とにかく、サービスって感覚が無いのだ。利権、君臨しか用語が無い精神が、結局地方自治の一翼を担う教育委員会も市民の目から隠れて官僚国家化してしまった。
 日本の戦後の60年を思うと、イデオロギー対決はまったく不毛だったと今になって気づく。日本は言葉のアヤで勘違いしていたのだ。その大きな用語が「資本主義社会」。本来、経済制度の話を政治制度の話に変えて、日本は資本主義を選ぶのか共産主義を選ぶのかってプロバガンダを行った自由民主党。その相手は日教組。日教組も頭悪いのは政治制度と経済制度の区別もつかない「教育専門馬鹿」集団だったこと。
 アメリカの低水準の教育(国民の情報入手制限に起因するのだが)の結果、ブッシュが再度大統領に選ばれたが、「それで良いのか」って質問をアメリカ国民に向けて言いたい。
 アメリカは反共のイデオロギーを脱して世界を見ているなんて思えない。結局、反共だけがアメリカのトラウマで、その点に限ればアナクロ的思想で大統領はブッシュなのだろう。結局、「内政の失敗は外に敵を求める」って有史以来繰り返されてきた政治の手法が、また繰り返されただけなのだが。

人を創らなかった教育現場
 正直言って「産学共同」と言うが、教育の現場は「産業知らず」の中で動いている。もちっと補足すると社会知らずの中で動いている。太平洋戦争が終わって工業立国による復興を目指した時の教育は軍隊に近い集団生活出来る人材の育成で良かった。これは教育現場には楽な使命だ。ただ、画一から外れる生徒に目を光らせて矯正すれば良いのだから。
 その手法のまま続けたために、バブル期に突入し、ジュリアナ東京のような風俗が生まれても一向に教育の現場は工業立国の基礎である集団就職向き生徒の育成路線を続けて来た。もっと、根本的に問題なのはこの教育で育った世代が今の教育を担っているって悪循環だろう。
 なんせ、語るに落ちるのだがバブル期に土地投資へ迂回融資も含めてせっせと行った金融機関の経営者の判断基準は「1)大蔵省(当時)は認めているのか」、「2)他社は手を出しているのか」、「3)で、他社は儲けているのか」しか無かった。横並び画一型教育で成績の良かった人間が辿る先はこんなもんだ。
 人造りが教育の基本である。良い成績をおさめるなんかは教育の目的でも無いし手段ですら無い。基礎学力は最低限必要だが、成績を競うためだけの基礎学力を越えた知識教育は無駄なのだ。これを読んでいる人に問いたい。あなたの人生の中で円の面積を知る必要ってありましたか? 球体の体積を知ることが必要な場面はありましたか? 三角錐の体積が計算できることで人生に何か良いことがありましたか?
 結局、教師自身が自分の土俵に引き込むために教育を行っている本末転倒な事を野放しにし、そして今があるのだ。学校で事前に学ぶのでは無く、必要があれば学べる仕組みを創る。効率を重んじる日本人が何故か見逃したのが、教育の効率への配慮だった。

教育専門が森良朗元総理大臣
 国の三位一体の改革の中に義務教育費の削減が取りだたされている。この方針を自民党に飲んでもらうためには「教育族」の元総理大臣の森良朗氏の説得が必要とか。
 あまりのギャクに腹抱えて笑い転げて腸捻転になりそうだった。「えひめ丸事件」の時に賭けゴルフ途中だったんで首相官邸に戻らなかったあの森良朗氏が「教育族」って何処から出てくるのか。単に「教育予算利権族」って言葉を略したものなのか。ギャクを越えてブラックジョークだ。
 ここの「言いたい放題」で何度も書いているが「教育に効率追求を導入せよ」って考えを真剣に考えてもらいたい。日本の教育制度は義務教育から高等教育まで一貫して工業立国向けを変えていない。そして「教える側の土俵の拡充」がまかり通っている。なんとか学会なんてのはその典型で、クソの役にもたたない事柄を「御本尊」と崇めて、その御本尊を研究するオタクを会長に祭り上げて、まったく生産性の無いオタク集団化している学会がほとんどだ。
 正直言って「情報処理学会」てのがあるが、やっていることは学者の遊びで実態は300bpsの音響カップラ並だ。ギガビットイーサーとは別な世界、三途の川の向こう側としか思えない。こんな学会は山ほどあるのだ。それが高等教育も含めた今の「先生」の現状だ。

自らの成果を語れない悲哀
 人を育てるってのは成果の評価が難しい分野で、自ら成果を語るものでも無い。子供を何人有名進学校に送り込んだかは数字で明確に現われる。
 良い先生とは生徒の成績を上げる先生だろうか。
首にならない地位を確保してイデオロギー運動に走る日教組は論外だが、組合員である先生たちへ教育の指針をフィードバックしない組織も「どっち目線なんやぁ」とやれやれな組織である。その組織を惰性で温存した現在の教師もやれやれな奴なのだが、基本的に方針が無い組織はこんなもんだろう。
 教育は国造りであるってことすら最近の日本ではかえりみられない。教育は成績で計る産業になりさがった。その象徴が昔の共通一次試験、今のセンター試験なのだ。全員が大学に進学できる時代を迎えて、選抜試験なんてのは意味を失っている。にも関わらず成績を得る勉強を続ける社会的損失は年金の無駄使いの社会保険庁の比では無い。年金制度の改悪は国民を飢えさせるが、教育の荒廃は国を滅ぼすのだ。
 既に滅んでいるって意見もあるだろう。その責任は教育を野放しにし、イデオロギー闘争の場を容認した日本国民が負うべきだろう。しかし、個々の戦犯は校長を筆頭に地方自治体の組長も含め現場に隠れているのだ。
 教育者の無責任さには、告発する気力すら起きない。もはや、三途の川の向こう側の人々としか認識出来ないのだ(詳細は機会があれば書くが、実態はひどすぎる、の一言である)

button 情報教育が確立していない日本の現状

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2004.11.20 Mint