2011年は日本の政治が大きく変わるスタートライン
|
「地方の時代」の流れの試金石
民主党の政策の中に「地方主権」がある。言葉尻を捕らえる訳では無いが、日本は中央集権の国である。地方主権を実現するためには日本が連邦制の国家にならなくてはいけない。もちろん、そのためには憲法改正が必要である。
たぶん、民主党の言う「地方主権」は地方分権、地方への権限委譲を指すのだろうが、それを実現するにはハードルは高い。いや、高すぎる。
今年の春には統一地方選挙(実際には解散や辞任が繰り返されて必ずしも統一地方選にはならないのだが)が行われる。その中で中央政権が政権交代した時代の地方の政治制度のありようが見えてくる。つまり、国政と地方自治とのあり方の違いが明確になるのか、はたまた地方自治は国政の縮図に甘んじるかの政治制度の今後を決める選挙になる。
そこまで深刻に訴えられる地方の政治家が派生するかどうかも鍵だが、時代は江戸時代の藩政治の世界に戻りつつある。それは東京にいて何も見えていない官僚の政策が限界に達したからだ。政治のスローガンとしての「地方主権」では無い。もはや東京で全国をコントロール出来る時代は過ぎて、地方の個々の実情に応じて政策を展開しなければ日本の総合力が高まらない時代になっているのだ。
「秘密のケンミンショー」って番組がある、栃木弁が売りの漫才師が居る、関西弁は大手を振って東京のキー局から放映される。
坂本龍馬ブームもそうかもしれない。地方のエネルギーが中央を囲い込む、毛沢東が言った「農村が中央を包囲する」文化が日本で起きている。
|
地方の時代が実現しないのは依存主義
リーダシップの発揮が難しいのは小学校の学級委員から始まって総理大臣に至るまで同じだ。リーダーたる資質は何かを詰めると、結局、人を引きつけることである。
その形成は決断の積み重ねで階段を上っていくしか無い。しかも、階段を踏み外したら転げ落ちるしか無い。その舞台がリーダシップの舞台だ。階段を踏み上がる舞台と踏み外す舞台の瀬戸際に立たされているのがリーダであり、それを踏み外さないのがリーダシップだ。
踏み外しても階段に固執するのを国民は「女々しい」と言う。(特に女性蔑視の意味は無いことを付け加える。日本語が悪いんやぁ)
地方にはリーダシップを発揮する組長が少ない。全国の知事を見ても出身が官僚の知事が多い。何故なら、今までの日本の政治は明治時代から連綿と続く中央集権であり、その運営には中央からの官僚を地方の組長に「仰ぐ」のが政治システムの最良の選択であったから。
その反面教師として「地方の時代」を掲げた組長が注目されたのは20年も前から始まった改革の流れだったが結局実現はしなかった。
その大きな要因は組長が住民から直接選挙で選ばれても、実部隊の市町村職員の意識が改革されていないこと。そこには若造の課長が中央から落下傘して、中央の予算で事業を指揮している。それで現場は安泰なのだ。しかも、組長が三国志よろしく三懇の令でわざわざ中央の官僚を招いているのだ。その方針に逆らうよりは、中央とのパイプを作る事により中央に「隷属」(あえて、この言葉を不適ではあるが使う)する意志に従わざるを得ないのだ。
その実態が職員に「地方主権」なんて言葉の虚無さを感じさせて地方自治の有るべき姿の勉強も失って単なる調整型の「役人」に育てていく元凶となる。
民主党の地方主権は50年かかる
そもそも、地方自治の原点をを考えると、GHQの作った日本国憲法である。当時の2院政を残した衆議院、参議院に加えて地方では組長と議会を構成する民主主義制度を導入したのだ。それまでは知事は自治省の任命によるものだった。
日本の政治制度の歪みは国政と地方自治が接点を持たないことだ。本来であれば地方自治の制度の中から国政の代表者を選び、国政制度(これもあいまいだが)へ送り込むのが一番民意の反映である。だから、選挙は全体として整合性を持って民意を反映しなければならない。
日本の政治の特徴に世襲議員があるが、これは選挙制度の悪用と断言せざるを得ない。つまり、今の選挙制度では国民は選挙のたびに投票する。しかし、衆議院選挙、参議院選挙、地方自治議員選挙、地方自治組長選挙と選挙には色々あるが地盤、看板、鞄と言われる選挙主体は実は同じなのだ。
衆議院選挙の選挙母体を利用して参議院選挙に対応する。市民はその渦に巻き込まれる。衆議院で投票した陣営の押す議員に参議院でも投票する。そんな繰り返しが同族議員と世襲議員を生み出したのは実態を見ると明らかだ。
そんな歪んだ選挙をスタートラインとして、日本の地方公務員は政治の流れから中央依存で安泰の根性が染みついてしまっている。地元の政治家の機嫌を取るのが地方自治だと思っている。この精神を鍛え直すにはその世代が定年で去るまでかかるだろう。
私は一方的に知合いと思っているのだが昔のニセコ町長の逢坂氏の行動を見ていると地方自治の仕組みを作れていないと思う。彼自身が国政に出た時点で地方自治の国政依存の旗頭になってしまった。本来、「地方主権」には地方に居て現場主義で現場を鍛えるリーダシップこそが使命なのではないかな>逢坂氏