菅直人総理は明智光秀役がお好きらしい

ゴタゴタ劇を時代劇に例えると
 時は1582年6月21日(天正10年6月2日)の明け方。本能寺に宿泊の織田信長を明智光秀が襲い、織田信長を自刃に追い込み、織田信長の領地を明智光秀が奪って治めることとなった。
 今回の菅直人総理と小沢一郎氏のゴタゴタはこれに例えると解りやすいと思う。つまり、水戸黄門のような定番時代劇を演じているだけで近代国家の政治の片鱗も見えないってことだ。「坂の上の雲」にたどり着くにはこれから300年もかかる。
 本能寺の変の直前の日本の勢力地図は織田信長を筆頭に中国地方の毛利氏、四国の長曾我部氏、関東の北条氏、北陸の上杉氏、九州の島津氏、奥州の伊達氏等の勢力により統治されていた。ま、織田陣営の民主党、社民党、国民新党に対峙して「たちあがれ日本」、みんなの党、自民党、公明党、日本共産党、新党改革なんかが存在する今の国会と同じようなものだ。
 武田勝頼を滅ぼし凱旋した明智光秀は功労のあった徳川家康を安土城に招いて接待する接待役であった。が、尾張の味噌カツに代表される舌の徳川家康を京料理で接待し光秀の機転の無さに織田信長は激怒し接待役を解任してしまう。その理由を織田信長は光秀にしなかったものだから、解任の事実だけが残り光秀は織田信長を恨むこととなる。
 ま、このあたりは宇宙人鳩山由紀夫氏に徳川家康役をお願いしておこう。
 また、毛利攻めを行っていた羽柴秀吉から援軍の要請があり、光秀は出陣の準備を命ぜられる。羽柴秀吉役は今後の展開に重要なので、配役を振らない(笑い)。
 織田信長も羽柴秀吉の援軍として小姓を中心にした少人数で出陣し本能寺に宿泊する。一方光秀は13000名の兵士を率いて出陣し、途中で織田信長の閲兵を受けると称して京都に向かう。
 このあたりは代表戦の国会議員票と党員票の関係に似ている。

本能寺包囲網
 13000の兵は本能寺を包囲する。おもての騒ぎに部下が喧嘩をしていると思った織田信長は調べに行かせるが「紋は桔梗(明智光秀の家紋)」と報告された。
 トロイカ体制で行けると鳩山由紀夫氏に言われて安心していたら地方の党員票に包囲されたってことだ小沢一郎氏は。
 多勢に無勢の状態で織田信長は森蘭丸に火を放たせ炎の中で自刃する。ま、この森蘭丸は参議院の輿石氏にお願いしたい。
 さて、代表戦終了後じゃなくって本能寺の変後の織田信長無き(代表戦後は役職が無いって程度だが)天下情勢で各自は各様に動くこととなる。
 羽柴秀吉は信長が亡くなった報を聞くと毛利家と和解し直ぐに兵を率いて光秀陣に向かう。中国地方から一気に京に向かい11日後には山崎の戦い(天王山の戦い)で光秀を破ってしまう。他の武将が敵討ちを行う前にとの迅速な行動が後に「中国大返し」と呼ばれる。
 光秀は天下取り成就の後天皇家へ拝謁するが、秀吉の「中国大返し」を聞くと山崎に出陣して迎え撃つが敗れる。敗れた原因は近畿地方の大名細川忠興、筒井順慶らの支持を得られなかったからだ。このあたりは鳩山派の誰かに役を任せておこう。
 徳川家康は安土城での接待を受けて後、返礼のために京都の織田信長へ向かったが途中で悲報に接する。一時は京に上って本能寺で殉職するとまで言ったが結局山城綴喜・近江・加太峠・伊賀の山中を通って伊勢に戻る。本国の三河にまで戻るこの行程を「神君伊賀越え」と後に称する。この行程は非常に危険だったが伊賀の服部半蔵の助けをかりて無事三河まで戻った。後に、江戸城に「半蔵門」が出来たのはこの時に由来している。
 徳川家康は信長不在で空白地帯になった信濃・甲斐を占領し、武田家を越える勢力の大名に成長した。ま、この役は現在の民主党には居ないと思われ、逆に民主党の外に居るかもしれない。

歴史は繰り返すのか?
 同じような事は人間の営みだから多々あるのだろうが、同じように繰り返されるとはならないだろう。ま、民主党が人材不足だから明治維新直前のように振る舞えない事もあるだろう。
 現実問題として民主党の代表選挙が本能寺の変のようで有ったか別にして、明智光秀の三日天下(実際には11日)は現在でも起こりそうだ。予算が通っても予算関連法案が通らなければ内閣は責任を問われる。国会から倒幕運動が始まる。それが4月上旬だ。それを過ぎると統一地方選の結果が出る。これまた民主党党内で倒幕運動が始まるだろう。
 5月の連休明け、丁度、鳩山由紀夫総理が小沢一郎氏を引き連れて辞任した6月2日を待たずして菅直人内閣が崩壊する。
 上記の国会本能寺の変は、代表選挙の時の事では無く、この時期の国会かもしれない。織田信長を菅直人総理、森蘭丸を仙谷由人元官房長官、明智光秀を前原誠司外務大臣、羽柴秀吉を岡田克也幹事長、そして徳川家康を原口一博元総務大臣。そして海江田万里氏や他の大名に渡辺善美氏、谷垣偵一氏、石原伸晃氏などを配置すれば良いだろう。
 残念なのは現在の国会運営を見る限り決して尊皇攘夷を議論した幕末の志士の物語には成らないってこと。それだけの論客が居ないし、国会がこれからの日本を語る土俵たり得ない。大きな時代の流れを「見えない、聞こえない」で乗り切ろうって愚を重ねているだけだ。
 今、ふと思いついたのだが本能寺を囲んだ「紋は桔梗」は我々国民なのかもしれない。

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2011.02.17 Mint