大学の小学校化は進んでいる
大学で非常勤講師を11年もやっていると大学の小学校化に気が付く。そもそも大学教育と小学校教育は根本的に違うものだ。ところが文部科学省は講義への出席率が70%以下の学生に単位を授けてはいけないと通達してくる。これが大学の小学校化の始まりだろう。学生は単位が欲しくてシブシブ講義に出てくる。そもそも興味が無いのだから教室は私語か携帯電話操作の場と化す。
その度合は高校以下だ。何故なら、ある時に喫煙所で煙草を吸っていたら「先生の所は私語で講義ができないってことは無いですか」と聞かれた。「私は何故、私語をしてはいけないか講義の最初で言いますし、私語をしている学生を叱りますから無いです」と返答しておいたのだが、この相談してきた先生は有名な進学校の校長を定年で退職して非常勤講師で来ていたことが後から判明。しかも、半年の講義を終えると次の講義は辞退してしまった。衰退する日本の学生の相手がいやになったのだろう。
私語は問題外だが興味の無い学生相手に緊張感を保たせるためか試験を厳しくして講義をしっかり聞いてメモしないと単位を授けないって先生も居る。これも大学の小学校教育化に拍車をかける。
教えた項目から問題を出し、それに60%以上正解しなければ単位を与えないって方法はは大学教育が選択してはいけない。その講義が背景に抱える膨大な学問領域を示さず、一人の教員の限られた知識だけから選択した問題で60%の正答率が何を意味するのか。万の課題から100を選んで、その中で60点か50点かってのは教える側のご都合主義で決して学生の考える力を養わない。世の中の0.6%を知ると単位がもらえて0.5%だと不合格の意味が解らない。
そもそも10年ほど前に文部科学省は「生きる力をはぐくむ」ってキャッチコピーを掲げていた。生きる力とは生活力だと解釈されていたようだが、本当は生きる力は知恵であり考える力をはぐくむ教育でなければならない。結局、このキャッチコピーは看板倒れで終わってしまうのだが。
大学では教わることをおぼえる必要は無い
しかし自分で調べたものを記憶するのは必須だ。大学教育では全てのものを疑ってかかることを教えるべきだろう。疑うには疑う根拠が必要でその知識を身につけなくては疑うことはできない。そして、多くの場合、疑ったことが無意味だったことを知ることになるのだが、そこまでたどり着くには沢山考える必要がある。
教えられた事柄を丸呑みして、試験の答案にその一部を書くだけでは大学に通う意味が無い。卒業証書のみに人生の大切な4年間も時間を掛けるのは意味が無い。4年間、海外で生活して来るだけで何倍もの人生の糧を得られる。
しかし、同じ4年を費やすのであれば、無意味な教育に迎合するのでは無く、自分の人生の糧を少し手も手に入れるべきだろう。そのためには、先に書いたように教わることは疑ってかかることだ。脳みそを使って考える力を大学で蓄積することだ。
僕は大学では毎週課題を出している。その課題は「自然と天然の違いを述べよ」とか「事実と真実の違いを述べよ」みたいなもので、ホームページで出席登録させるのだが、講義最後に教えたパスワードに加えて考察を備考欄に書き込まなければ出席扱いをしなようにしている。
ま、この話は少しづつ書いていくつもろだが、先日テレビでおもしろい話をしていた。
《かぐや姫の話をしてかぐや姫に求婚した男たちが持参したものを聞くのは高校教育。大学教育はかぐや姫が月に帰った後の老夫婦の心情を述べよってことだ》
名言だ。
今の大学の教える側、教わる側、双方にこの意味が分かる人間はどれだけ居るだろうか。そこが大学教育の原点であり、教育に責任を持つってことなのだが。
日本の衰退の原因は人材を育む努力を怠ったことにある。