メルトダウン前提の処置が行われていない
3月11日
もう遠い昔のような気がするが3月11日の14:46分に地震が起きた時まで遡ってみよう。地震が福島第一原発を襲った時点でかなりの部分に致命的損傷が生じていたはず。
主排気筒が機能しなかったと思われる(後述)ので復水器あたりから一次冷却水が漏れたのではないかと考えられる。福島第一原子炉は沸騰水型なので一次冷却水が直接発電タービンを回す。その後、復水器で蒸気が水に戻されて再度炉心に向かう。
15:35には津波で重油タンクが流出しディーゼル発電装置も冠水し全電源が止まる。東電と保安院の計算結果が違うがおおむね地震の5時間後にはメルトダウンが始まっていた。
21:23に菅直人総理は福島第一原発の半径3kmに避難命令、半径10kmに屋内退避(待機)を命じた。既に復水器からはかなりの放射性物質が放出され北西の風に運ばれ始めていた頃だ。
テルル132が約6km先の浪江町まで風で運ばれるには1時間程要しただろう。また、重いテルル132が風で運ばれたってことはかなり高温な上昇気流が発生していたはずだ。これも一次冷却水の沸騰によったのかもしれない。原子炉建屋が水素爆発で飛び散るのは12日の15:36であるから浪江町で検出されたテルル132は復水器から放出されたと思われる。
12日
12日の1:20になって東電は原子力災害対策特別措置法の15条の特定事項(原子炉格納容器の圧力が下がらない)を国に通報した。
3:05に海江田通商大臣はベントを行うむね記者会見を行った。
朝には避難指示が半径10km、18:20には半径20kmに避難地域が拡大された。
原子炉格納容器の圧力が上がってベントを試みたが動かず、最後は手動でベントしたのが14:30になる。それまで放射性物質は格納容器の中に閉じこめられていたはずだが、実際には表に漏れ出ていた。しかも、格納容器の水素は主排気筒から排出されるはずが、建屋内に充満してしまった。これも主排気筒が停電で機能していなかったからだろう。
住民に避難指示が出たのは、特に半径20kmまで拡大されたのはベントが始まったあとだった。正確にはベントに手間取ったのでスムースに行けば海江田通産大臣の3:05の会見でベントをしますと発表されてから数時間で行われただろう。この時点では半径3km避難である。
しかもこの日の朝には先のテルル132は浪江町に届いていた。
初動のまずさとは原子炉に対する処置以外に住民避難にもあらわれていて、同心円の避難地域の指定すら後手後手だった、さらに、SPEEDIはまったく生かされず放射能に沿って避難した住民も多数出てしまった。
12日にはメルトダウンが解っていた
12日(事故発生翌日)はいかにして原子炉を冷やすか、使用済み核燃料プールを冷やすかであたふたしていた。実際には原子炉は圧力容器の底に熔解した燃料棒が崩れ落ち設計温度を超えたのでパッキン等も溶解し格納容器に燃料が漏れ出ていた。その格納容器すら底部に穴があいている状況だ。ここに海水を注入し続けた結果、高濃度汚染水が貯まり一部は地下水系に漏れている。
壊れた水位計のみで注水を行って燃料棒を水没させていると信じていた日が1ヶ月も続く。この段階で燃料が崩壊し圧力容器の底に貯まっている状態だと正確に知れば(その状況証拠は多々あった)圧力容器の温度と圧力のコントロールを行えば良く、大量に海水や真水を投入することは無かった。
事故からの復旧を考えると大量の汚染水を発生させない工夫が必要な時に水位を保つためにジャブジャブ水を注入し続けたのだ。これも人災である。
情報を国民から隠すよりも、状況証拠を集めきれず、正確な判断が出来なかったのではないのか。
メルトダウンを認めないが故に事故復旧が遅れたのではないか。そして一番の復旧の壁は水素爆発であった。停電で主排気筒が機能していない状況でベントを行えば何が起きるかは想定内だろう。少なくとも1号機で経験を積んだのだから、主排気筒の復旧なくしてベントは無いと学習しただろう。特に3号機の水素爆発は「想定内」では無くて回避可能であった。それが回避されればどんなに復旧作業が好転したことか。