安政の大地震のような日本国土の変化が再来か
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天変地異と政治の変化
日本人の制度改革は黒船方式が多いと言われる。つまり、自分自身時代の変化を読む力が弱い(後述)ので外圧によらなければ制度改革が行えない歴史を語ったものだ。
明治維新と安政の地震を歴史的に振り返ってみよう。
1855年11月11日 夜10時頃に八丈島近海を震源とするM6.9の地震が発生した。当時の世界最大の都市江戸を襲った地震は死者5000名と言われている。多くは地震後の火災で被害にあったのだが。これが安政江戸地震である。人的な被害に加えて家屋を初め多くのインフラが破壊された。
実はその1年前に3連続巨大地震が起きている。
1854年11月4日 M8.4 安政東海大地震(震源、遠州灘)
1854年11月5日 M8.4 安政南海大地震(震源、和歌山、徳之島)
1854年11月7日 M7.9 震源、豊予海峡
わずか4日間の間に3つもの大地震が起きていた。現代なら緊急地震速報が余震も含めて鳴りやまない事態になったろう。
古代から、日本人は天変地異が起きると年号を換えたり、統治者を換えたり心機一転を計ってきた。今回の東日本大震災に例えれば旧日本国憲法であれば天皇から新たな組閣の指示が出ても良い大災害だ。が、のらりくらりとペテン師は天変地異に対する対応すらしていない。
この安政の地震(連続複数)と同時期にペリーの黒船来港があって、時の幕府は統治能力を問われることになる。当時は京都の天皇から政権を預かっているのが徳川幕府であった。だから、安政の地震後13年で大政奉還が行われ天皇を中心とした明治政府が発足する。
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日本人の時代に対処する能力
悪い意味で言っているのでは無いが日本人は世界に有数の鈍感な民族である。それは世界でも有数な島国で周りを海に囲まれているので天候の変化によって耕作地や耕作不的確になった経験を持たない。かつての世界4大文明は気候変動により長く同じ地域に留まり文明を成熟されていくことができなかった。
日本は地勢的な条件から1万数千年の長きに渡り縄文文化が継続した。ポスト縄文文化の現代は残りの2000年程で実に1万数千年の長きに渡り文明が継続した。そして残りの2000年も地勢的な条件はあまり変化していない。
エジプトでピラミッドを造っていた時期に日本では縄文土器、土を焼いて器を作り、最後は見事な縄文火炎土器にまで進化していく。これも地勢的な条件から気候変動にさらされなかったおかげで技術がc地域内で伝承したためだろう。
で、ここに良きにつけ悪きに付け日本人の文化の源泉があるように思う。
自然への畏怖と人工構造物の蔑視である。「嵐が過ぎるのを待つ」の言葉に込められているように所詮人知では対応出来ないことは通り過ぎるのを待つ。日本人の文化をあらわす言葉に日本人は良く「そんなこと、どうでもいいじゃない」と関わりを避ける傾向があると言われる。日本人には世の中には人知が及ばない境界線があってそれを超えても何も出来ないのだから超えてはならない一種の諦め、諦観の心が育っている。
それが江戸時代が300年続いた背景だった。また、世の中の仕組みは何時か自然の猛威によって壊れると本能的に感じているので目に見える技術志向が強い傾向がある。これは江戸時代末期の和算が西洋数学を超えていて定理の証明は当時世界の数学では手が出ない範疇の難題を幾つも解決していた。
そして、戦後の復興は工業技術による復興であり戦後の憲法が進駐軍に押しつけられようが一向に「そんなこと、どうでもいいじゃない」とあしらってきた。
「でも、明治維新で明治政府を作ったのも日本人だぞ」の反論があるだろう。
実は明治維新は地方から中央への揺り戻しであり、今回の東日本大震災は逆に中央から地方への揺り戻しになるだろうと考える。それが今までの前振りである。
中央集権の弊害が顕著な東日本大震災復興
マスコミに登場する多くの評論家の意見を聞いていると東京で上から目線で地方を見ている価値観(立ち位置?)に驚かされる事がある。
日本の将来に向けて最も高齢化と人口減少が著しい東北地方に過大な復興投資をしてはいけないって評論家が居る。一見合理的だ。イフラを整備して復興しても利用する人口が減少しては宝の持ち腐れだ。だが、では、自分たちの住んでいる地域はどうなんだ。同じように少子高齢化で人口が減っているのだ。東北は先進地であるが将来の日本の縮図なのだ。当事者意識を持って受け止め発言出来ない評論家の意見は聞く必要が無いしマスコミが流す価値も無い。
実は、これが先に述べた東日本大震災を起点とする地方への揺り戻しの一例だ。多くの政策や議論が現場を抜きにして行われている。そもそも現場を知らない東京人があれこれ現場に指示を出す弊害が随所に見られる。
松本龍・前復興対策担当相の発言が問題視されるのは、現場を知らずに上から目線で指示してくる中央政府に潜在的に感じていたものが顕在化したからだろう。象徴的なのは最初に報道したのは現場の東北放送だった。他のキー局も同じ映像を撮影していたが流さなかった。これがyou-tube等で流されてネットで炎上が始まってやっとキー局が全国に流したのは翌日になってから。
ネットで知った人々も先の人々と同じ感情を潜在的に持っていたのだろう。いくら田原総一郎氏が「松本龍氏は社会党の麻生太郎氏でベランメイ口調だが親分肌」と養護しても東京人の上から目線にイライラしていた現場は松本龍氏をスケープゴートに中央に噛みついたのだ。そのエネルギーは止められない。(ここは、斉藤和義氏の「ずっとウソだった」の「放射能はもう止められない」のように読むこと)
中央の無責任が明治維新を招いた
無責任の用語は必ずしも適語表現では無いかもしれない。無理解とか無関心とか無能力とか様々な用語の合わさった感情に近いことばが被災地にはある。一部には諦観の感情も含まれるかもしれない。
流石に従順そうだった安住国対委員長も逆ギレするほどの菅直人総理大臣の言動は安住国対委員長の選挙区が宮城5区なことに遠因があるかもしれない。安住国対委員長の中では今まで東京よりに立っていた立ち位置が明らかに被災地側に立ち位置が変わってきてるのだ。
阪神大震災は表現は悪いがある意味で小規模だったので後藤田正治氏が全権をあずかって復興に向けて活動出来たのかもしれない。今回の東日本大震災は震災と津波と原発の3つが重なり復興対策は非常に多くの変数を含む多次元方程式を解かなければいけない。そのためには多才な専門家を招集しながら統一された復興対策を練り上げ日々手を打っていかなくてはならない。
それは現場の知恵を優先することだ。小学校のグランドの放射能は文部科学省管轄で畑に降った放射能は農水省、道に降った放射能は国土交通省、原発周辺の放射能は厚生労働省って構造は打破する必要がある。それが現場主義だ。東京の官僚組織には出来ない。
既にNPOやボランティアの優秀なスタッフが現場に飛び込んで現場主義で復興に向けた活動を始めている。これは明治維新前夜の各藩に集まった下級武士の行動に似ていないか。幕府はあてにならないなら自らが現場からのボトムアップでこの国を変えていこうって心意気だ。
明治維新は形骸化した幕府に大政奉還をさせて強力な中央政府を作ったが、それから144年を過ぎて東日本大震災では強力な中央政府は何も出来ない程現場を知らないことが解った。これからは現場に権限も金もまかせる時代が始まる。
後年、東京のヒラメ(上しか見えない)幹部の意見を無視して注水を行った東京電力福島第1原発の吉田昌郎所長がひょっとして小学校の教科書に載ったりして...