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あくまで「プロ市民」と特定用語扱いだ
個人的な不平不満を解消するのが市民運動だと勘違いしている人々を特定用語として括弧書きで「プロ市民」と書いておく。本来の市民運動家は「プロ市民」では無いし、その運動には共感を覚えるものが多い。「プロ市民」は個人的意見を集団化した意見に展開するのが目的で、藤原正彦氏が「国家の品格」で書いているように「論理の起点を間違えると、そこから何を重ねても意味がない」状態にある人々だ。本来の市民運動の起点は社会を広く大局的に見回し、その中でより良い解決方策があるにも関わらず阻害されている原因を調べ、その阻害するものを改善すると言った広い視野と見識と観測を備えて理論の起点を形成する。 「プロ市民」の意見を聞いていると論理の拠点が狭く、結局「私が不満な事」でしか無い例が多い。つまり、モンスター・ペアレンツと「プロ市民」の行動様式は同じだ。違うのは市民運動のワッペンをTシャツに貼っているかどうかくらいだ。 今回の福島第一原発事故から脱原発へ短絡的に結びつける「プロ市民」の感覚は、ある意味「それで物事が解決するなら気楽なんだが」と羨ましくすら思うときがある。 世の中の仕組みは複雑で、あまりにも複雑なのでカオス理論(不確定性理論)で確実に把握する(非常に矛盾する用語の用法だが)手法すらある。 原発が無ければ電力需要はどう賄うのか。これに対して「プロ市民」は火力発電の総発電量は十分日本の電力を賄えると言う。しかし、火力発電所だって蒸気でタービンを回す方式の機械であるから停止して定期点検を行う必要がある。それを考慮しないでインタネで集めた発電所の最大発電量をエクセルかなんかで集計して暴言を吐く。底が浅いのは「プロ市民」の常だ。 武田鉄矢氏にも「プロ市民」の臭いがするのは、ラジオ番組で「脱原発は200年、300年先に実現すれば良い」(この場合、別に脱原発だけが「プロ市民」の言い分では無い。原発推進派にも「プロ市民」が居る)と言う。科学的根拠をや技術革新を踏まえればワンジェネレーション(1世代30年)で産業構造は変革する。つまり、200年、300年では無く、その1/10で構造改革は可能なのだが底が浅い。 つまり「プロ市民」は深く物事を考えず、皮相的な判断力しか無く、何より現状の課題の指摘だけで、その解決策の提示って視点が欠けている。つまり課題解決に向けたアクションプランが無い。 そして、それは情報化社会の陥る悪い側面でもある。 |
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2011.10.14 Mint
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