「命を危険にさらす」ものは山ほどある
その山ほどあるものの中から電気を特定して「たかが電気」と発言する真意は単に自らのためにするレトリックでしか無い。だから、まったく説得力が無い。坂本龍一氏と言えば著名な音楽家だが、社会常識ってスケールで彼を評価すると、常識のない下品な餓鬼あたりが正統な評価だろう。
社会はリスクと利便性のバランスで成り立っている。これは社会人としての常識だ。「たかが電気」が無くて命を落とす事例の枚挙にはいとまが無い。医療における電気は生命維持装置を筆頭に各種検査機器等で利用され命を支えている。一般家庭でも冷暖房に利用され高齢者の生活必需品である。無ければ生命が危ぶまれる。そもそも、坂本龍一氏は拡声器を使っていたのではないか。その「たかが電気」の恩恵を受けているのだ。
通勤・通学を支える交通機関。これすら交通渋滞や交通事故の原因になる。が「たかがバス」とか「たかが電車」とは言わない。リスクと利便性のバランス感覚が大切だ。
航空機は何時頭上に落ちてくるかわからない。オスプレーで騒いでいるが確率論から言えば空港周辺は常に航空機が飛び交い、航空機事故はクリチカル11ミニッツと言われるように離着陸時に事故が多い。にもかかわらず「たかが空港のために命を危険にさらされてく無い」とは言わない。ま、心では思っているかもしれないが、リスクと利便性のバランスだ。
何時か来る津波や地震に備えて絶対倒壊しない持ち家を建てることはしない。せいぜい「人並みの耐震」にとどまる。これもリスクと利便性のバランスだ。この場合は利便性はコスト負担と置き換えても良い。
確率論から言えば1000年に一度の災害や100年に一度の災害も今日、今起きる確立は同じである(正確には若干違うが誤差範囲)。1000年に一度は100年に一度よりも起きる可能性が低いって尺度だけの問題で、起きない確率では無い。1000年に一度が100年に一度よりも前に起きることもある。
「たかが電気」は最大の思考停止を生む
原発の再稼働に賛成か反対かの論議以前に電気を「たかが電気」と捉えてしまっては思考停止である。どのように社会の中でリスクと利便性のバランスを取っていくかが原発再稼働に(全廃でも同じだが)向けての知恵の出しどころだ。そのためには多くの要素を加味しながら結論、民主的で合理的で経済的な結論にたどり着かなくてはならない。
「2030年の原発依存度は0% 15% 20〜25%、どれがいいですか」なんてものを議論の前提にするのはまさに、思考停止だ。2030年の世界のエネルギー事情、世界経済の動向、各国の勢力地図、様々な背景を議論し予測しなくてはならない。まして一番気になるのは2030年までに人類が構築出来る科学技術は何かってことだ。上記はあえて解りやすいように「原発依存度」と書いたが政府の使った文言は「原子力発電」だ。文言だけを捉えると核エネルギーを利用した発電を指している。既にインドで実用化実験が行われているトリウム原発は2030年に向けて取り組まないのか。技術開発のイノベーションは政府の視野に無いのか。まさに、小学校の学級会が今の民主党政権な証左だ。
思考停止に陥らず自ら考えるためには「電気」を「たかが電気」と呼ばないことだ。電気をいかに生み出し(発電)使用(利用)するかを自ら考えることが大切であり、他人に思考を依存する風潮は社会をおかしくする。既に民主党の公聴会は思考停止公聴会なので何の成果も生まない。
10万に集会に参加した10万人(実際には7〜17万人あたり)全てが思考停止とは思わない。しかし、坂本龍一氏の発言にNoと言わないのは思考停止だ。いや、先に述べた科学的エビデンスで物事を判断する人間では無く感性的エビデンスで納得してしまう思考停止人間だ。
世の中は複雑怪奇だ。だから人間は知恵をもってそれに対峙して行かなければならない。感性的エビデンスで妙に納得して選択した結果が今の政権交代だったことを肝に銘じる必要がある。
自ら考える人間になるには、全てのことを疑ってかかることだ。世の中には都合の良い答えが転がっていて、それを見付け出せば良いのでは無い。全ての都合の良い答えは偽物だ。そう疑ってかかるべきだ。「たかが電気」なんて発言はその最たるものだ。鵜呑みにせず、疑ってかかれ。
と、納得した、あなたは、このメッセージを疑っていないことになる(笑い)。