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中部大学の武田邦彦教授の論なのだが
武田邦彦教授は日本社会が物事を決めるときに科学的事実では無く空気的事実によって判断していると警告する。「科学的事実」と対比させて何となくそんな雰囲気になる事象を「空気的事実」と称しているのだが、これが個々人の判断基準になってしまう所に危うさがある。個人の判断の基準としてあえて「根拠」を用いて「科学的エビデンス」と「感性的エビデンス」と用語を再定義して対比して考えてみる。風評被害と言われる事象の多くは、実は個々人が「感性的エビデンス」を信じ、それを各人の判断基準にしている事に起因する。 もちろん「感性」を信じて生きていきたい人は居るだろう。生き方としての「感性主義」を批判するものでは無い。但し、それは「各自の心の中にしまっておけ」ってことだ。 この「感性主義」が外部に向けて発信され集団が同一の感性的エビデンスで染まると、集団の進路を見誤る。意図的かどうか別にしてある種の宗教団体的行動に結びつく。ましてや、国家の向かうべき方向が感性的エビデンスで決定されてしまっては、国家存亡の危機を招く。 武田邦彦教授は今回の福島第一原発事故の報道と国民の受け止め方のギャップ、ひいては原子力村の論理に空気的事実で物事が決まってしまう事を嘆いている。一例をあげると事故当時の枝野官房長官の「ただちに健康に影響のあるレベルでは無い」の発言だ。これが感性的エビデンスでは「政府が健康被害が無いと(保証して)いる」に昇華する。そして、論拠になり物事の決定につながっていく。 後に枝野官房長官は「短時間浴びても健康被害が発生しない程度の放射線量を「ただちに」と言った」と釈明してるが完全に後付けである。科学的エビデンスを提示せずに感性的エビデンスで広報するから政府は何か隠しているって「感性的エビデンス」を引き出す。実際にはSPEEDIのデータを隠していたのだから政府の情報隠匿は科学的エビデンスであったのだが。 このような感性的エビデンスが何故蔓延するか。それは受け手の不勉強に起因する場合が多い。物事の本質を知ろうとしないで皮相的に物事の判断を行うから結論は感性的エビデンスになってしまう。繰り返すが感性的エビデンスは心の中に仕舞っておくべきものだ。いくつかの事象でこの感性的エビデンスを検証してみよう。 |
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2012.05.30 Mint
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