日本再生は大学の教育改革がスタートライン
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戦後復興を夢見るのなら
日本は終戦後世界に比類無い経済成長を遂げた。その原動力は何だったかを正確に言い当てた資料は無い。
1)朝鮮戦争による軍事特需が原動力となって経済成長を遂げた。
2)決定方法が不明確な戦後の固定為替レートである1ドル360円が輸出への経済傾斜を生み経済が成長した(ちなみに戦後の為替レート決定根拠は不明である。円=サークル=360度節が一番有意義な節だ)
3)戦後の外地からの引き上げにより労働力に恵まれ石炭、木材等の資源エネルギーの傾斜経済政策が復興を早めた。
ま、あげると千差万別できりがないのだが、4)戦争によって国土が破壊された責任を国民全員が共有し復興に一丸となれたってのもありだと思う。まさに、昭和30年代の所得倍増政策が成功したのは生産性倍増に伴い輸出産業が日本の国力(外貨獲得)増大に繋がった。アメリカ人が1ドル稼ぐ生産性と日本人が360円稼ぐ生産性では圧倒的に後者が容易であった。だからアメリカ人が1ドルかけて作った商品を日本人は0.3ドル以下で作ることが出来た。この時、戦後七不思議の一つの為替レートの決定がここで効いてくる。
ロンドンオリンピックが終わったばかりだが、日本は1964年に東京で夏期オリンピックを開催している。1964年(昭和39年)は昭和30年代の最後として日本の経済成長が成功した到達点でもあった。
その後、安保問題と大学の閉鎖的象牙の塔問題に端を発して学生運動が盛んになり社会が不安定性を増してくる。また、価値観の多様化も進み経済一辺倒の国民の総意は様々な方面に流れていく。富士ゼロックスの「モーレツからビューティフルへ」のCM(1970年)が東京オリンピックから10年を経た時代背景を的確にあらわしていた。
この70年代の学生運動華やかな頃に活躍(熱心な運動家)したのが、猪瀬直樹(信州大学全共闘議長)、江田五月、菅直人(通称4列目の男)、坂本龍一(当時高校生)、塩崎恭久(全国浪人共闘会議参加)、仙谷由人、テリー伊藤(左眼の斜視はデモで投石が当たった後遺症)、宮崎学、森田実、の面々だ。
ちなみに、私事になるが1968年の10.21新宿闘争時は高校の修学旅行で東京に宿泊し、新宿で武力闘争のすさまじさ目にして宿に帰る電車が止まっていたので門限までに走って帰った。帰りの青函連絡船の中でメキシコオリンピックのサッカー3位決定戦で釜本選手のゴールを(録画だったかもしれないが)見た。だから、東京オリンピックと学生運動のお題に結びつく(笑い)。
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大学の教育改革が学生運動の原点であった
中学校の「いじめ」問題ばかり着目されるが、組織が歪むと表面に現れてくる事象である。火山の噴火ばかりに着目して噴火口から下のマグマのうねりに着目しない皮相的な着眼点だ。今の教育が抱えている様々な問題が様々な事象となって表面化している。
今回は現在の大学教育の改革について述べるが、これは特定の大学を対象としたものでは無く、現在の大学の教える側、教えられる側、双方に潜むマグマのうねりの話である。非常に一般論であり、複数の大学で目にしている。だから、特定の大学の一部の現象では無いことを予めおことわりしておく。
先の70年代の学生運動は閉鎖的で隠し通す大学運営を民主化しようとしたのが発端である。最後は連合赤軍事件に帰結するが、スタートはしごくまっとうな話だった。そして、時の佐藤栄作総理大臣の号令のもと機動隊による大学の封鎖解除、そして起きた連合赤軍事件の全貌の解明で学生運動は支持基盤を失い終息していった。
問題は、その後の大学教育である。事なかれ主義のマークシート教育が大学に入学してもなお行われるようになった。入試の手法としてのマークシート方式だが、大学の講義ととは相容れないものがある。
それは入試ではマークする対象の中に必ず答えがある。大学の教育は答えは無い。だから答えを導き出す手法を考える。まさに、答え探しでは無く答えにたどり着く手法探しが大学教育の基本になければならない。
例えば大学設置基準って省令がある。ここの第21条では講義で取得する単位を以下のように定義している。
1単位は45時間の学修をもっておこなう。
一般に大学の講義は1回90分。これを15週に渡って行い2単位としている。
90分×15回=22.5時間
大学設置基準では1単位45時間であるから2単位は90時間。すると講義は「学修」時間のうち22.5/90=0.25 1/4が講義の時間で残り3/4が自習の時間であらねばならない。
実際、教務課で履修表を作るときには大学設置基準にのっとり、学生が一日24時間以上「学修」しなければならない履修表は作らない。大学の講義に妙に空き時間が多いのは、この大学設置基準の自らの「学修」の時間を考慮しているからだ。(この大学設置基準が間違っているって話もあるが、これは国が決めたのだから、選挙で解決する問題で、ここでは触れない)
実際の大学の講義ではペーパー試験をする場合、22.5時間で教えた中から設問を出す。つまり、本来「学修」すべきフィールドを1/4に狭める。そして、60点(大学によっては50点)以上で単位が取得できる。つまり、1/4×0.5で学修すべき範囲の1/8が解っていれば単位が手に入る。そもそも、学修すべき範囲が世間で必要とされる範囲の1/10以下、いや、比べものにならないくらい狭いのだから、なにおか言わんやである。
で、就職氷河期と言われても、世間並の基礎知識が欠落してる学生を受け入れる程、企業は慈善事業では無い。
好奇心を生む教育を、考えさせる教育を
皆入学になって久しい大学だが、その実情は大学の小学校化が進んでいる。その最たるものが文科省からの通達で「講義への出席率70%以下の学生には成績のいかんに関わらず単位を付与してはならない」である。のこのこ講義に出てきて寝ているのなら、アルバイトでもやってお金のありがたさを体験した方が本人のためだ。この通達以来、講義の出席率は高くなったが爆睡率も高くなっている。興味が無いので私語するよりも寝たほうが得てことだ。
そもそも、戦後教育、特にバブルが弾けてからの教育では、教える側も教わる側も「何がこれからの人生に大切か」よりも「何が今、得か」に発想がねじ曲がっている。教育は目先の利益では無く、将来への投資だ。だから、今現在は持出し、回収は将来行われる。
講義に出てきて爆睡している学生は将来を投げ出しているのだから、就職の時に泣きついても始まらない。
その価値観を大学入学時に先の大学設置基準と同じようにしっかりと学生に説明する必要がある。入学試験はマークシートで答えを探す方式だったかもしれないが、大学は自ら答えを導きだそうと苦労しないと単位は得られない。答えが無い所から始まる。としっかり教えるべきだ。
そもそも、一般教養の入り口でのガイダンスが手ぬるい。ここが教授会に任されていて、教授会はいかに楽する(何が今、得か)の精神に立脚しているので「面倒をかけずに卒業してね」がポリシーになってしまう。教える側が「考える講義」を考えていないのだから改革されない。
ネットの時代、昔のように1492(意欲にかられるコロンブス)とか1192(いいくに作ろう鎌倉幕府)なんてのを暗記する必要は無い。それよりも、織田信長が本能寺の変で明智光秀に倒され、それを豊臣秀吉が破ったって因果の関係をしっかり教えるべきだ。また、キーワード、これだけは暗記させる必要がある。後は自分で調べれば良い。例えば応仁の乱、何故、応仁と呼ぶのか。阪神甲子園球場、何故、甲子と言うのか。パンダの居る上野動物園は何故、恩賜上野動物園と呼ぶのか。
その答えは残念ながら(笑い)ネットにある。但し、キーワードを知らなければ検索もできない。
昔、ネットで使うプライベートアドレスとは何かを400字以内にリポートせよって課題を出したら映画プライベートライアンのストーリーをリポートして来た子が居た。キーワードすら理解的無い典型で、せめて、キーワードだけは正しく理解しようよ。
白洲次郎がケンブリッジで受けた講義
どっかで一度書いたかもしれないが、NHKの「白洲次郎、敗戦を背負った男」のドラマの時に原作に無い以下の部分が書き加えられている。
英語を得意とした白洲次郎は旧制第一神戸中学校の英語教師と何度も対立する。教師の教える英語では白洲次郎にはレベルが低すぎるのだ。やがて中学校卒業とともにケンブリッジ大学に留学する。
大学の講義を受けてリポートを提出する。リポートを見た教授から呼び出される。
「白洲、君は日本人としては英語が上手だ、提出されたリポートに誤字や間違いは無い。ただ、ここに書いてあることは全部、私が講義で教えたことだ。白洲が考えたことは何一つ入っていない。
人の意見を聞いたら少しは疑ってみることだ。そして、自分なりに反論を試みるのだ。すると、小さな頭が少しだけ発達する。学問を進めるってことは小さな頭を大きくすることだ。このリポートは書き直しなさい。」
そこで、白洲次郎は『ここに来た甲斐があった、俺が求めていた教育がここにある』と深く感動する。
大学教育は教えることでは無い、もちろん教わることでも無い。
社会への最後のステップとして人生を賭けて極めたいもの。何が一番自分の好奇心を刺激するのか見付ける場所。それが大学だ。たぶん、それは簡単に答えの得られるものでは無いだろう。それ故に好奇心をくすぐるのだ。モチベーションも高く維持(一生)出来る。
それを見付ける手助けが各種カリキュラムだ。単位を得るために履修するのでは無い、自分の好奇心をくすぐるものを見付け出すためにカリキュラムはある。講義はそれを手助けするためにある。爆睡していて後から助けてくれって言われてもそれは自己責任。
その意味で、卒論以外は半分は社会人非常勤講師で良いと思う。それぞれの企業の専門家を招いて学生の好奇心をくすぐるのだ。
そのような大学教育の改革を今すぐ始めないと「何が今得か」しか考えないような世相が出来上がり(既に出来上がっているが)感性的エビデンスが珍重され科学的エビデンス(国際標準)がないがしろにされる日本社会が出来上がり(既に出来上がっているが)、日本再生は夢のまた夢になる。
ちなみにアメリカでは地方自治体がコミュニティ・カレッジにおいて学問とカルチャー教室が融合した教育を行っている。これは、宗教が価値観の共有を生み、教会が地域のコミュニティの中心である社会でこそ可能な教育の形態である。
日本は地域と教育の接点があまりにも薄い。