文部科学大臣は教育全体に責任を負う
発端は新設申請していた3大学の設置を文部科学大臣の権限(職権)にて設置を認めないってものだ。その理由付けは前述のように感性的エビデンスに立脚した後付の言い訳でしか無い。そもそも、大学の新設を抑止したら大学の質が向上するって論理が破綻している。
新設の大学は少子高齢化の時代の流れを受けて新たな大学教育のありかたを模索する中から生まれてきたものだ。大学の質の向上を目指して新設を目論んでいるのだ。田中真紀子文部科学大臣の持論と真逆なのだ。
そもそも、就職して社会人になる教育の出口である大学の質を大学だけで向上させることは無理がある。大学は教授側(多分に質の問題があるが)と学生側(これも多分に質の問題があるが)で構成される。学生の供給源は高等学校である。高等学校への供給源は義務教育である。
教育の出口である大学は教育の集大成であり、大学だけでおよそ12年におよぶ小中高教育を受け止めて質の向上を担える訳が無い。
さらに文部科学大臣であれば近視的に大学だけを見るのでは無く、国民の教育を受ける権利にどのように質を持ち込むか考えるのが責務である。幼児虐待、義務教育でのいじめ問題(高校にもあるが)、過去無かった(あるいは顕在化しなかった)問題が山積である。入り口から手を打たなくては教育の質は変えられない。つまり、小学校ひいては乳幼児教育から手をつけなければならない。「三つ子の魂百まで」は経験に裏打ちされた教育の原点である。
大学だけに質の論理を持ち込むと不具合なエリート学生が生まれ、1970年代の連合赤軍事件が再来するかもしれない。そもそも、大学の質を下げてエリートを生まなくしたのは当時の佐藤栄作総理大臣の悲願だったのでは無いかとまで言いたくなる。
加えて、その時代を経て大学を卒業した人間が現在の教授会の中枢であり、教育の質を語らないまま2世代回ってしまった。その元凶は日教組であり文部省そのものなのだが、この件は今回は語らない。
大学の質は大学院に逃げた
大学の現場の話を述べておこう。体験なので感性的エビデンスに陥る危惧はあるが、他の多くの人の意見も調べて貰いたい。大学を構成するのは前述のように教授と学生である。教授の質の向上には数年前に名称の変更により職務分担の明確化が行われた。教える教授と研究する教授に分けてもっぱら教える教授は4大に研究する教授は大学院に配置されている。ただ、どちらも教えるプロを育てる教育カリキュラムを経ていないので、教え方は下手である。
国公立大学生70万人に対して私学には200万人の学生が居る。
http://www.stat.go.jp/data/nihon/zuhyou/n2200100.xls
常勤教務者の比率は国公立6万人に対して私学は10万人である。私学の常勤教務者は国公立の半分の割合である。
私学の教授側は圧倒的に非常勤講師によってなされている。この非常勤教師は昔はポスドクの若手が多かったのだが最近は社会人が多く、ある意味、教え方は下手だが社会経験の多いものが担っている。
学生の質も4大は高校の延長線上にあり、本当の大学らしさは4大では得られず大学院になって初めて行われている。単純化すると「習う4大」、「考える大学院」と言ったところだ。
学生の質については4大しか知らないが、ゆとり教育のために原理原則を教えることができない。例えば統計分析で相関係数の原理を教えるのは高校教育で高等数学を習っていないので無理。せいぜいエクセルでこう叩いたら出るよって感じだ。
総じて「答えを教えて貰う」教育に慣れすぎたので自分で考える力が育っていない。何か課題を出すとすぐググル(笑い)。答えの無い質問には答えられない。「自然と天然の違いを述べよ」「卵と玉子の違いは」「地球は一年間で何回自転するか」などは無回答が多い。これは大学だけで質を変えることはできない好例だ。考える力が12年間で育まれていないのだ。だから、大学で授業の「質」を上げると大半の学生はオチこぼれる。
国民は文部科学省の横割りの学校制度別教育に振り回されてきた。しかも、そのカリキュラムの主体は経済の高度成長時に集団就職で都会に生徒を送り込む「企業の兵隊」を作る仕組みから一歩も出ていない。
やがて、現在の大学生世代が就職で学校や職場で指導的(教育的)立場になる時、日本は初めて教育の失敗に気が付くのだろうか。既に先に述べた2世代目が大学の現場で教えているのも事実だが。
少なくとも田中真紀子文部科学大臣の発言を放漫報道するマスコミ、それを納得する国民、この事態は数十年前に大学で仕込まれた潜在ウイルスが発症し顕在化している証左だ。