体罰も成果も結局は結果責任、それが社会の常識

教育的指導のはき違え
 教育の現場の端っこになるけど大学で非常勤講師をしている身としてはヒョーロン家のようなコメントはしたくないのだが、今の日本の「教育ベルトコンベア」で流れてくる学生に接するときに日本の教育が国民の無関心故にどれだけ歪められたかを書き留めておきたいと思う。
 社会人でサラリーマンが日本国民の典型的な生活様式だろうが、実は江戸時代はサラリーマンって考え方は無かった。ほとんどが長男による農地の伝授による農耕社会で長男以外の男性は丁稚奉公で個人経営の商店にでも勤めるしかなかった。一部は田畑を分けるって方法もあったが。
 「勤める」って概念も現代と違いサラリーマンでは無くて奉公であった。暖簾分けによって自分が新たな個人商店の経営者になるまでの奉公である。
 それが明治維新による富国強兵の政策によって工業化が進み奉公から労働者への人材の供給が始まった。残念ながら制度は未熟で女工哀史なんて状況も生まれたのだが。当時、人材を育成するために「標準語」なんて制度が生まれた。
 憲法9条の改訂に反対する人たちに問いたいのは「標準語政策」とは何だったのかって歴史観である。これは日本国として軍隊を編成する時に言葉がバラバラでは伝達出来ないので「標準語」を軍隊における通常語とした名残である。
 だから「標準語」で憲法9条改訂に反対すること自体が軍事政策の踏襲なのなのだが、彼らはその恩恵を自分に都合が良いから認めている。
 話は本題に戻る。教育の難しさは相手(ま、大学では学生)が物事の本質を理解できるだけの素養を備えているかの把握が出発点になる。学生は新年度になると入れ替わるのだが、こちら(非常勤講師の私)は何時もと同じ手法では対応できない。だから、新しい学生集団の素養の把握を最初の仕事になる。
 去年の手法が通用するかどうかは新年度に集う学生の素養に依存する。
 もちろん、過去の名声なんてのは無い「お気楽」かもしれないが、講義の主役は「いまそこにいる学生」(c.トクムランシー)であって、今までに築き上げた「自分の名声」(そんなもの私には無いのは自明だが)では無いのはあたりまえだ。

話して解らない子と話す
 大学で教えるようになって既に14年(大学としては2校目)になるのだが学生の素養は様変わりしている。大学が違うからって部分を考慮しても20代の学生の意識の変化は講義を通して感じることが出来る。その最たるものが今の学生は「甘やかしで育った人間」って感覚だ。
 別に熱血教師を気取る訳では無いが、この「甘やかしで育った人間」の最大の欠点は自分で考えないってことだ。何を問うても答えを探す。何処かに答えが有ると思う感覚が染みついている。それこそ「甘やかし」だ。世の中には答えなんか無い事柄が沢山ある。だから、自分で考えて答えを求めなくてはいけない。それが出来ない世代が「教育ベルトコンベアー」で大学に運ばれてくる。
 「人間は考える葦である」その教育の原点が失われている。そして、「考えるな、俺に従えば全国大会に出られる」って思想が肯定される。
 そもそも、高校のクラブ活動で教えるべき教育はスポーツの精神である。Jリーグが出来た時に川淵チェアーマンが「Jリークを通して日本に体育では無くてスポーツを根付かせたい」と言ったのは、当時の競技(勝敗)中心の学業教育では勝つことが目的になり、その結果として名声(ドラフト指名1位とか)を得る体育の考え方では無く生涯を通じて運動する楽しみを「スポ−ツ」って用語に求めた。
 1:nの教育の現場では個々の学生の考え方を見失しないがちだが、教育は数の多数決では無い、個々の学生には個々の背景があって、それに応える講義が必要とされる。
 乱暴で反社会的な学生は居る。その学生と会話するがチャンスは得られる機会は少ない。でも、きっかけを作り果敢に話すようにしている。で、解ったのは世の中を知らないで自分の経験だけで物事を判断する間違った人生観があることだ。
 人間は環境の動物であると言うが、個々人が体験できる「経験」は学習活動そしては非常に狭い。その狭い「経験」だけで物事を判断する危険性を教えなくてはならない。
 実は女子大で教えていた時に、非常にギスギスした、有る意味価値観の多様な集団を受け持つ時があった。その時に「人に優しくすれば優しい顔になれる。皆の顔を見ていると人と競う顔に見える。競うことは自分を高めるけれど、人に優しくできる余裕が無いとどんなに優秀でも他人には認められない」と教えた。
 数人の子が実際に人に優しくなるように努力したようだった。一番感動したのはシングルマザーで育てられ、母親の店(スナック)を手伝わされていた子が大学院に進んで人を育てる仕事に就きたいと言ってきたことだった。
 初対面の時に「お水」で女の武器の使い方を知っているような子だったが、人生をしっかり見据えたようだった。


で、今回の教育現場の問題だが
 ネットを見ると「熱血先生だった」なんて言葉を目にするが、それは違う。社会は基本的に結果責任。そのことを教育の現場は「教育ベルトコンベア」の中で単純作業の繰り返し化して本質を見失っている。教育とは改訂された教育基本法にもあるように人材を育てる活動なのだから、工業生産では無い。
 ベルトコンベアーでは学生を見る目を失う。
 教育の主役は学生にある。高校では生徒と表現するのだが、基本的に主役は教育をする側ではなくて教育を受ける側にある。だから、名物先生なんてのは多くの学校でその手法を広めるのが「教育者」としての義務なのだが、今回は教育者として姿勢よりも自己の名声形成に主眼が移ってしまった。
 結果責任は教育の現場にも応用される。いかに人を育てたかが命題になる。それに応える教育者は残念ながら少ない。何故ならば、日教組が「教育ムラ」を行動方針としているからだ。
 閉じた社会では国民の目が届かないのは原子力ムラ」で我々が知った。同じように教育の現場は「教育ムラ」を形成するのに努力してきた。でも、それは民主主義の原則に反する。
 閉じられた空間で独自に行われる文化。他人の目に触れないが故に生じる「村社会」それが人権を無視した非条理な世界なのは中国共産党支配を見るまでもなくあきらかだ。
 唯一、閉じられて守られている「村社会」が公知のものとなるのは、原発事故や今回の自殺によるもの。つまり、事件が起きなければ隠された「村社会」でありつづけられる。
 そして、公知のものとなったらそれは「結果責任」である。いかに全国大会で優秀な成績を収めた指導であったにしても、部下を失った原因を作ったのであれば全て間違いだ。それが「結果責任」なのは一般社会の常識だ。教育の現場では常識化しているのだろうか。だとしたら、「教育村」全体が問題をはらんでいるのだろう。
 社会に隠れた「村社会」。あまりにも多すぎるのではないだろうか「マスコミ村」なんてさいたるものだ。

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2013.01.14 Mint