話して解らない子と話す
大学で教えるようになって既に14年(大学としては2校目)になるのだが学生の素養は様変わりしている。大学が違うからって部分を考慮しても20代の学生の意識の変化は講義を通して感じることが出来る。その最たるものが今の学生は「甘やかしで育った人間」って感覚だ。
別に熱血教師を気取る訳では無いが、この「甘やかしで育った人間」の最大の欠点は自分で考えないってことだ。何を問うても答えを探す。何処かに答えが有ると思う感覚が染みついている。それこそ「甘やかし」だ。世の中には答えなんか無い事柄が沢山ある。だから、自分で考えて答えを求めなくてはいけない。それが出来ない世代が「教育ベルトコンベアー」で大学に運ばれてくる。
「人間は考える葦である」その教育の原点が失われている。そして、「考えるな、俺に従えば全国大会に出られる」って思想が肯定される。
そもそも、高校のクラブ活動で教えるべき教育はスポーツの精神である。Jリーグが出来た時に川淵チェアーマンが「Jリークを通して日本に体育では無くてスポーツを根付かせたい」と言ったのは、当時の競技(勝敗)中心の学業教育では勝つことが目的になり、その結果として名声(ドラフト指名1位とか)を得る体育の考え方では無く生涯を通じて運動する楽しみを「スポ−ツ」って用語に求めた。
1:nの教育の現場では個々の学生の考え方を見失しないがちだが、教育は数の多数決では無い、個々の学生には個々の背景があって、それに応える講義が必要とされる。
乱暴で反社会的な学生は居る。その学生と会話するがチャンスは得られる機会は少ない。でも、きっかけを作り果敢に話すようにしている。で、解ったのは世の中を知らないで自分の経験だけで物事を判断する間違った人生観があることだ。
人間は環境の動物であると言うが、個々人が体験できる「経験」は学習活動そしては非常に狭い。その狭い「経験」だけで物事を判断する危険性を教えなくてはならない。
実は女子大で教えていた時に、非常にギスギスした、有る意味価値観の多様な集団を受け持つ時があった。その時に「人に優しくすれば優しい顔になれる。皆の顔を見ていると人と競う顔に見える。競うことは自分を高めるけれど、人に優しくできる余裕が無いとどんなに優秀でも他人には認められない」と教えた。
数人の子が実際に人に優しくなるように努力したようだった。一番感動したのはシングルマザーで育てられ、母親の店(スナック)を手伝わされていた子が大学院に進んで人を育てる仕事に就きたいと言ってきたことだった。
初対面の時に「お水」で女の武器の使い方を知っているような子だったが、人生をしっかり見据えたようだった。
で、今回の教育現場の問題だが
ネットを見ると「熱血先生だった」なんて言葉を目にするが、それは違う。社会は基本的に結果責任。そのことを教育の現場は「教育ベルトコンベア」の中で単純作業の繰り返し化して本質を見失っている。教育とは改訂された
教育基本法にもあるように人材を育てる活動なのだから、工業生産では無い。
ベルトコンベアーでは学生を見る目を失う。
教育の主役は学生にある。高校では生徒と表現するのだが、基本的に主役は教育をする側ではなくて教育を受ける側にある。だから、名物先生なんてのは多くの学校でその手法を広めるのが「教育者」としての義務なのだが、今回は教育者として姿勢よりも自己の名声形成に主眼が移ってしまった。
結果責任は教育の現場にも応用される。いかに人を育てたかが命題になる。それに応える教育者は残念ながら少ない。何故ならば、日教組が「教育ムラ」を行動方針としているからだ。
閉じた社会では国民の目が届かないのは原子力ムラ」で我々が知った。同じように教育の現場は「教育ムラ」を形成するのに努力してきた。でも、それは民主主義の原則に反する。
閉じられた空間で独自に行われる文化。他人の目に触れないが故に生じる「村社会」それが人権を無視した非条理な世界なのは中国共産党支配を見るまでもなくあきらかだ。
唯一、閉じられて守られている「村社会」が公知のものとなるのは、原発事故や今回の自殺によるもの。つまり、事件が起きなければ隠された「村社会」でありつづけられる。
そして、公知のものとなったらそれは「結果責任」である。いかに全国大会で優秀な成績を収めた指導であったにしても、部下を失った原因を作ったのであれば全て間違いだ。それが「結果責任」なのは一般社会の常識だ。教育の現場では常識化しているのだろうか。だとしたら、「教育村」全体が問題をはらんでいるのだろう。
社会に隠れた「村社会」。あまりにも多すぎるのではないだろうか「マスコミ村」なんてさいたるものだ。